東京大学2017年国語第1問 『芸術家たちの精神史』伊藤徹
この年における入試形式の変化として特筆すべきことは、120字問題と漢字書き取り問題を除く小問、つまり2行問題の数が、4から3に減ったことである。
小問の数を減らしたのは、時間をかけて練りあげた答案を書かせる必要性を感じたせいかもしれない。
また、この問題文は2004年第1問と同じ著者によるものである。東大入試の国語が現在の4つの大問という形式になった2000年以降、同じ著者による問題文はこの例のみである。
東大の入試問題に採用されるということは、その文章が論理的で、普遍的もしくは今日的なテーマを扱っており、しかも適度に(あるいは過度に)難解であるという条件を満たしているからかもしれない。
(一)「科学技術の展開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
第1段落の冒頭に「与えられた困難を人間の力で解決しようとして営まれるテクノロジーには、問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発によって解決しようとするというかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っている」とあり、具体例として「科学技術によって産み落とされた環境破壊」が「新たな技術を要請」し、「感染防止のためのワクチン」についても「新たな開発を強いられる」としている。
しかしよく考えると、「要請」されるのも「強いられる」のも、もともとはテクノロジーを営む主体であったはずの人間である。このように営む主体である人間を、いつの間にか強いられる客体にしてしまうのである。このように、人間を引きずり回すところがテクノロジーの不気味なところなのである。
なお、テクノロジーは科学技術より広義の概念だが、傍線部アは後者について述べられているので、主語を「科学技術」として、解答例をつくると、「困難解決のため人間によって営まれる科学技術は、自ら作り出す問題の解決のために、人間に次々と新たな開発を強いる形で自己展開するということ。」(68字)となる。
(二)「単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
傍線部イの主語は「テクノロジー」なので、傍線部を説明するということは、「~という理由で、テクノロジーは単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない」という内容の文をつくるということである。
ここで、「単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない」とはどういう意味か。第5段落には、テクノロジーについて、「テクノロジーは、本質的に『一定の条件が与えられたときに、それに応じた結果が生ず』」という知識の集合体である」とある。また、「『どうすればできるのか』についての知識」であって、「結果として出てくるものが望ましいかどうかに関する知識」ではない、ともある。後者の「結果として出てくるものが望ましいかどうか」は、第3段落の「問題に関わる是非の判断」と同義である。
したがって、テクノロジーが「単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない」とは、「テクノロジーは是非の判断に関係しないわけではない」という意味だという結論になる。
そして、その理由を述べたものが、傍線部イに続く第6段落の全体である。「テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲するのであり、放擲された人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われることもなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する」である。
以上のことから、「テクノロジーは、人間を実行可能性に導き、それまで不可能ゆえに問われなかった問題に直面させる点で、是非の判断に無関係ではないということ。」(67字)という解答例ができる。
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