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東京大学2000年国語第4問 『海辺の博物館』三木卓

 筆者の感性にもとづく心象風景が、かなり抽象的な言葉で表現されているため、なんとなくは理解できるが、具体的な解答を作成するのは骨が折れる。説得力ある解答を仕上げようとすれば、安易に自分の感覚で言葉や論理を補充するのではなく、あくまでも本文の内容を拾いあげ、実直に概念と概念をつなぎあわせていく必要がある。

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(一)「自分によって書かれた言葉は、その行手行手で心得顔に待っていて、〈おまちどおさま〉と皮肉をいうばかりだ」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。
 傍線部アの「言葉が」「皮肉をいうばかり」は、その直前の「列車は同じレールの上を走り出す」「自分のつくった網から出ることはむずかしい」「素材をちがえ構成をちがえ文章のスタイルをちがえたところで、列車は同じレールの上を走り出すだけ」と同義である。
 そのような状況が現れるのは、小説の執筆にかんして「すぐ次に同じような試みをする」場合、つまり小説を書き終えてから、すぐに次の小説に着手する場合である。
 そもそも、次の小説は書く動機は「わたし自身がすこし変化している、と感じるから」なのだが、実際にはその変化が乏しいために、いくら素材、構成、文章のスタイルつまり文体を変えても、言葉には変化があらわれず、そのために傍線部アのような状況がうまれるのだと考えられる。
 以上から、「小説執筆後すぐに次の小説に着手すると、素材、構成、文体を変えても言葉に代わり映えがないことで内面の変化の乏しさを悟らされるということ。」(67字)という解答例ができる。

(二)「この秒針が、デジタルで表示されるポイントとポイントのあいだを均質に動く保証はまったくない」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
 傍線部イを含む第10段落は第9段落の内容の比喩である。(もっとも、あまりわかりやすい比喩とはいえないかもしれない。そして、そのわかりにくさゆえに、こうして設問となっているともいえる)
 第9段落には、「言葉を現実を完全に把握しているものと思いこんでいる」とある。思いこんでいるということは、本当はそうではないということだ。言葉が現実を完全に把握できないのは、現実の人間が「言葉以上の知覚体」だからである。
 しかし、いっぽうで、「言葉はその限界性ゆえに表現や認識の媒体たり得る」ともしている。つまり、言葉は抽象的であり、それゆえに限界性があるのだが、その限界性は表現や認識を具体的に表現するためには不可避であるという逆説が成り立っているのだ。
 デジタル時計の表示にたとえられる言葉は限界性を持つので、それによって深遠な現実をあらわそうとしても、ステップせず連続的に移動する秒針のように微妙な変化をたどることはできないのだ。
 
以上から、「現実を表現、認識するための抽象性は言葉の限界でもあり、深淵で微妙な現実は言葉によっては完全には表現、認識できないということ。」(62字)という解答例ができる。

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