生徒の前で喧嘩した話。
ちょっと思い出したことがあるので昔話を書いてみる。
一応「この話は基本的にフィクションです」ってことで。
今、私は、研修講師やらコンサルタントやらとして、プロジェクトマネジメントの普及を生業としている。
この仕事に就くキッカケになったのは、もう10年以上前、ある高校のプロジェクトマネジメントの授業の支援のために当時務めていた業界団体からTAとして派遣されたことだった。当時の私は意欲だけはあったものの、研修講師はおろか教員免許を持っていないし教育実習も塾講師や家庭教師のバイトさえも未経験だった。しかし、生徒よりも先生方をサポートする立場なので問題はないと判断された。まっ、いわばポテンシャル採用ですな。
支援対象の科目は、総合的な学習時間として学年全員必修の授業でもあったので、基本的には、何週間かに一度の講義はホールに学年全員の約240人を集めて科目担当の先生が担当し、演習は8組ある各クラスで担任の先生が担当した。
つまり、私にとっては授業の前後の打ち合わせや準備こそ本番であり、授業中は教室を巡回するだけの気楽な立場だ。
それでも高校なので1コマ45分、8クラスを回れば毎週あっという間だった。
初年度は色々あって5月の連休明けに着任したが、その事件は着任から1~2ヶ月した頃に起きた。
その頃、まだ私は“センセイ”と呼ばれることに謎の抵抗感を抱えていたが、先生方は既に私に対する態度が二分していた。つまり、明らかに歓迎してくださる先生と明らかに迷惑がっている先生だ。前者の先生方からは常に称賛の嵐と難易度の高い質問攻めを受け続け、後者の先生方は年度末まで無視され続け一言もお話しいただけなかった先生もいた。
その科目は、高1でプロジェクトマネジメントの基礎学習を終え、高2以降は概ね現実のプロジェクトを扱うことを特徴としていた。
その頃の2年生は9月にある文化祭をテーマとし、その日までの何回か各クラスで文化祭実行委員会(文実)が中心になってプロジェクト計画を検討しており、その日は多分そのテーマの最終回で、各クラスの文実のリーダーがプロジェクト・マネジャーとしてプロジェクト・オーナーたる担任の先生から承認を得ることが目標になっていた。
いつもどおり鼻歌交じりに巡回していると「先生、助けてっ!」と、突然ある女子生徒に腕を引っ張られ彼女の教室へと連れて行かれた。
行くと、そのクラスの担任の先生も先程の分類の後者だった。
この先生は、例えば先日のホールでの授業中も爆睡していた。これだけ生徒がペアワークで盛り上がる中、よくぞそこまで響き渡る鼾がかけるものだと感心する程に。
招かれざる客として長居は気が進まなかったが、逃げ出すわけにもいかないので双方の話を聞く。
まず、彼女と男子3名の文実の4人組の主張を整理する。
現在、プロジェクト計画書は概ね作れたが、企画はクラスの意見がまとまっていない。その検討は明日のホームルームの予定。それでも企画の提出先である来週の文実の全体会議には間に合うし、どのみち企画が他と重なっていればその全体会議で調整され変更になる可能性もあるから企画は何案か持っておきたい。よって、今日の授業では今ある計画書で承認を得たい、と。
一方で、担任の先生は、このように仰る。
企画が無い計画では文化祭に間に合うか判断できないので認められず、それでは今日の授業の目標が未達になる、と。
そこで、私から「(これまで授業でも打ち合わせでも伝えていたように)この時間はあくまで総学としてプロジェクトマネジメントを学習する時間。文化祭の企画は特別活動なので明日のホームルームの時間で扱うのが本来あるべき姿。そして、今日のこの授業の到達目標はプロジェクト計画書の完成。クラスの合意と実態を反映し、今後も見越した計画ならば何ら問題ない。あとは、その計画が今まで学習した技法で正しく検討され、正しく計画書に書かれているかがこの科目での評価基準になる。」と伝えると、すぐさま横から、もうそうなっている成果物を渡された。
率直に言って、よく書けていた。
企画が出し物でも出店でも(この高校での文化祭の各クラスの参加形態は、この二択だった)無理なく実現できるように計画全体が設計されていた。
未決事項が多いために粒度は粗いが網羅性はあり、現時点での制約条件や前提条件を考慮したことが分かる程度には具体性もあるWBSと、それを基にマイルストーンや学年暦を勘案して作られたと分かるスケジュールがガントチャートとして描かれていた。コストも企画が未決なので見積こそ無いがマネジメント方針は示されており、リスクも識別された数こそ不十分に思えたが分析と対応策には現実的な内容が明確に書かれていた。
そう告げると、要は、この計画書でも担任が承認しないのだ、と、再び文実が訴えてきた。
それどころか、企画が決まった“ことにして”“でっちあげた企画”で今日の授業用だけに今から計画書を全て書き直せと言われたそうだ。
驚いて担任の先生に発言の真偽を問うと、さも当然と認め、曰く「(文実に提案する企画まで決まっているクラスもあるのに)他より遅れるなんてみっともない」とのことだった。
…でっちあげろって、それでも教育者か?
さすがにそのまま言った筈は無いのだが、それに近いことは無意識に口走ってしまっていたのかもしれない。
すると「何だと!免許も無い小娘が!」と、はっきり罵られた。私に対する態度の理由が凝縮された暴言だと思った。
そうなると、その数年前までの職場では“番長”の異名を取りアンガーマネジメントのアの字も知らなかった当時の私のこと、もう売り言葉に買い言葉で手こそ出さないが結構な怒鳴り合いになり、科目担当の先生に通報される騒ぎとなった。
いやはや、いくら若気の至りとは言え、授業を妨害された先生方や生徒の皆様、その節は本当に申し訳ありませんでした……。
すぐに駆けつけられた科目担当の先生の名裁きにより、その担任の先生も文実の計画書を渋々承認し、私もお偉い先生方から絞られ貴重なご指導を賜ることとなった。
生徒が呼び出されるのは職員室だけど先生は会議室なんだな…なんて下らない発見より前に、科目担当の先生が来られた時点で私なりには反省していた。
ここが生徒たちの居場所である教室であることをすっかり忘れて怒鳴り散らしていた自分に気付き、もう恥ずかしくて、消えたくて、とにかく早く帰りたかった。
嗚呼やっぱり劣等生だった私に“先生”なんて向いてないんじゃないかしら……
その消え入りたい気持ちのまま職員室を後にすることとした。
叱られた生徒の如く沈んだ面持ちで職員室の引き戸を閉めて廊下に出ると、先程の女子生徒が「あっ!プロマネの先生っ!」と、またもや文末に促音と感嘆符が必要な勢いで呼び止めてきた。
見れば文実の4人組がお揃いで、彼女は「ほらっ!先生に御礼言うんでしょっ!」と横にいるリーダーの男子生徒の背中をバシバシ叩いていた。
「いやいや御礼なんてそんな。むしろみんなの教室で怒鳴っちゃって悪かったわね。ごめんなさいね。」
そう力なく答えると、彼女は「いえっ!私たちは先生に御礼を言うべきですっ!」と力強い声を静かな放課後の廊下に響かせた。
ほーらっ!と再び彼女に背中を叩かれて気圧されたリーダーの彼が「…あざっした…」的な何らかの微かな声音をモゴモゴと吐き出した。
「もーっ!なんでそんなふうにしか言えないのっ!?」
憤慨する彼女と所在無げに俯く男子3人に私は言った。
「いいのよ本当に。あなたたちが正しいことをしただけなんだから。」
意外そうな表情で顔を上げた彼らに、私は続けた。
「これからも、お互いに、正しいことを、正しくやりましょうね。」
そう、今日の私は正しい主張はしたけど正しい手段ではなかったよな。
本当に、ごめんなさい。
私は、彼らを宥めながら、私自身を励ましていた。
それから2年弱で迎えた彼らの卒業式の日、リーダーだった彼と軽く立ち話をした。
あのとき、彼は私を呼びに行くといった彼女を「無駄だと思った」そうだ。
曰く「先生は先生なんだから先生の味方をするに決まってる」と。
それでも、あの促音と感嘆符の彼女は「あの先生は違うっ!」と勝手に教室を飛び出して私を連れてきてしまったそうだ。
でも、と続けた彼は「そのおかげで、クラスみんなでやりたいことができて良かったです。ありがとうございました。」と、ハレの日に相応しい晴れやかな笑顔を見せてくれた。
その声は、やはり決して大きくはなかったけど、生徒主催らしい賑やかな卒業パーティーの中で聞き取れる程度には充分に明朗快活だった。
日々様々な現場に関わる中で、ふと思う。
正しいことを正しく進めることは、どうしてこんなに難しいんだろう。
時の流れとは恐ろしいもので、今、あの彼らは30歳を目前にしている計算になる。
彼らは、社会に出ても正しいことが正しくできているだろうか。
そうできる環境にいられているだろうか。
かく言う私自身は、そうできる社会の創出に貢献できているだろうか。
きっと彼らは私を忘れているだろう。非常勤の教員なんて、それでいい。
だけど、私は、こんなふうに時々彼らを思い出す。
これからも私は正しいと思ったことをしたいし、そうしようとする人を応援したい。
だから、まだ私は今のところ諦めずに“プロマネの先生”を続けている。やっぱり先生なんて向いてはいないかもしれないけれど。