㊴ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第6節「大日本映画党 演劇俳優陣 新劇戦後編」
文学座 杉村春子
戦後の文学座は杉村春子を中心に回っていきました。
1947年、杉村は、フランス演劇に取り組むため、フランス演劇研究会を発足し、1949年には研究会を発展的に解消、若手育成もかねて毎日ホールでアトリエ公演を始め、翌年、信濃町にアトリエを建設した後、今に至るまでアトリエ公演はこの場所で行われます。
1949年、芥川龍之介の長男、芥川比呂志、加藤治子、長岡輝子などの麦の会(1946年結成)が合流、1952年には劇作家、演出家の福田恒存も参加し、『ハムレット』などの演出を行いましたが、杉村との意見の対立から、1956年、福田は退座しました。
1960年、安保闘争のあたりから杉村は左翼に共鳴してデモに参加するようになり、文学座はこれまでの政治思想にかかわらない純粋芸術志向から転向していきます。
そして、1963年1月、杉村への反発から、芥川比呂志、加藤治子も高橋昌也、加藤和夫、仲谷昇、小池朝雄、岸田今日子、神山繫、三谷昇、山崎努、名古屋章、橋爪功らと共に文学座を脱退、先に退座した福田を理事長に現代演劇協会、芥川をリーダーに協会附属劇団 雲を結成しました。
劇団 雲は、福田が外部から俳優を招聘し、新たに劇団 欅を創設したこともあり、福田派と芥川派が対立、1975年、多くの俳優が芥川比呂志と共に退団して演劇集団 円を結成します。福田恒存も翌1976年、劇団 雲と劇団 欅を発展的に解散併合して、現代演劇協会附属劇団 昴を立ち上げました。
劇団雲騒動の後も文学座からの退座は続き、1963年の12月には、1956年3月に入座した三島由紀夫創作戯曲の上演中止問題に端を発し、三島、矢代静一、賀原夏子、丹阿弥谷津子、村松英子、南美江、創設以来の大幹部中村伸郎ら10数名が次々と脱退、文学座創設者の一人である岩田豊雄(獅子文六)と三島を顧問に翌年グループ NLTを結成します。
グループ NLTは、1966年、丹阿弥谷津子が退団し、夫の金子信雄と新演劇人クラブ・マールイを結成、また、路線の対立から1968年4月三島由紀夫、中村伸郎、南美江らが脱退し、三島を中心とした劇団 浪漫劇場を結成、賀原夏子ら残った者は劇団 NLTと改称してフランス喜劇に取り組みました。
逆境の中、杉村春子は、太地喜和子、江守徹、樹木希林、小川真由美、高橋悦史など若手俳優を育成し、自らが率先して彼らと共に積極的にテレビに出演することでこの危機を乗り切りました。
杉村春子率いる文学座は、三津田健、北村和夫、加藤武、江守徹、角野卓造、宮口精二(1965年退団)など名優を輩出し、演劇だけでなく、映画、テレビでも活躍しました。
また、1961年に設立した文学座附属演劇研究所は、数多くの俳優を育てました。
1937年設立 文学座
元所属俳優
杉村春子 三津田健 北村和夫 加藤武 長岡輝子 太地喜和子 金子信雄 丹阿弥谷津子 大泉滉 高橋幸治 細川俊之 高橋悦史 大出俊 下川辰平 小野武彦 二宮さよ子 寺島しのぶ 内野聖陽
現所属俳優
江守徹 渡辺徹 角野卓造
文学座附属演劇研究所
1期生 北村総一朗、寺田農、樹木希林、岸田森、草野大悟、小川真由美、橋爪功
3期生 黒柳徹子、宮本信子
4期生 中山仁
5期生 藤田弓子
7期生 宇都宮雅代、峰岸徹、原田大二郎
8期生 村野武範、二宮さよ子
9期生 西岡徳馬、市毛良枝
10期生 滝田栄
11期生 桃井かおり
12期生 松田優作、阿川泰子、山西道弘
13期生 中村雅俊、本田博太郎 石立鉄男
14期生 宮内淳
15期生 田山涼成
16期生 内藤剛志
17期生 山下真司、松澤一之
18期生 田中裕子
20期生 渡辺徹、小川菜摘
22期生 大塚明夫
33期生 鈴木砂羽、佐藤二朗
39期生 波岡一喜
41期生 長谷川博己
1975年設立 劇団集団 円
元所属俳優
芥川比呂志 中村伸郎 南美江 仲谷昇 三谷昇 岸田今日子 真屋順子 高橋昌也 渡辺謙 寺泉憲 西田健
現所属俳優
橋爪功 岡本富士太 金田明夫
1976年設立 劇団 昴
元所属俳優
加藤和夫 久米明 小池朝雄 立川志の輔 中条静夫 藤木孝 鳳八千代
現所属俳優
北村総一朗
1968年設立 劇団NLT
元所属俳優
賀原夏子 川合伸旺 倉石功 伴大介 鷲尾真知子
1968年設立 浪漫劇場 1972年解散
元所属俳優
中村伸郎 南美江 村松英子 夏八木勲 中山仁 内田勝正
杉村春子は、黒澤明、木下恵介、小津安二郎、成瀬巳喜男、豊田四郎、溝口健二、今井正など映画界の巨匠に高い評価を受け、数多くの映画に出演し、東映では伊藤大輔監督『反逆児』など13作品に出演しました。
劇団俳優座 千田是也
1944年2月、青山杉作・小沢栄太郎・岸輝子・東野英治郎・東山千栄子・千田是也(設立時は活動禁止され表には出なかった)ら10名によって結成された劇団 俳優座は、戦後、千田是也をリーダーに、俳優技術を重視した演劇アカデミズム確立をめざし大きく発展していきます。
1946年3月、ゴーゴリ作『検察官』で第1回公演を行うと、それ以降一般公演の他、地方公演や俳優座こどもの劇場、創作劇研究会など活動を拡大していき、1949年、俳優座養成所を創設、1967年の閉所まで多くの俳優を育てることで戦後の新劇界で一大勢力となりました。
俳優座は、常設劇場の建設を目指し、その資金を得るため、劇団員たちは映画、テレビに積極的に出演するとともに、東映と提携、1953年から始まった東映ニューフェイス合格者に対する俳優研修を付属俳優養成所にて行います。
そして、1954年4月、築地小劇場以来の新劇の常設劇場として俳優座劇場を開場、千田の兄、舞台美術家の伊藤熹朔が大道具の制作をおこない、新劇の発展に大きく貢献しました。
1969年、結成メンバーの一人小沢栄太郎が千田是也と対立し俳優座から去り、その後も1971年、上演作品をめぐり幹部に反抗した市原悦子、中村敦夫、原田芳雄、地井武男、菅井きん、菅貫太郎、阿藤快など中堅座員が退座、1973年には井川比佐志、田中邦衛が離れました。
1968年8月、これまで座員が出演する映画やテレビを製作してきた俳優座映画放送部が分離して俳優座映画放送株式会社を設立。東映とは、1969年8月よりナショナル劇場枠で始まった東野英次郎主演『水戸黄門』、加藤剛主演『大岡越前』が高視聴率を得て長年にわたりシリーズを重ね、また、仲代達也主演映画『鬼龍院花子の生涯』(1982年)、『北の蛍』(1984年)などで提携、大ヒットしました。
1985年、俳優座映画放送は俳優座から独立、株式会社仕事と社名変更して、1975年に仲代達也夫妻が立ち上げた無名塾のマネージメント、テレビ、映画、舞台の制作などを手がけます。
俳優座はリアリズム演技を実践的に追及し、数多くの俳優を生み出し、日本の新劇界のみならず、映画界、テレビ界に大きく貢献しました。
1944年設立 劇団 俳優座
元所属俳優
千田是也 青山杉作 小沢栄太郎 岸輝子 東野英治郎 東山千栄子 村瀬幸子 木村功 信欣三 菅井きん 杉山とく子 山岡久乃 初井言栄 永井智雄 浜田寅彦 三島雅夫 稲葉義男
俳優座養成所出身俳優
1期生 岩崎加根子 野村昭子
2期生 滝田裕介 小沢昭一 小林昭二 高橋昌也 佐竹明夫 土屋嘉男 武内亨 井上昭文 島崎雪子(中退)佐藤英夫 小林トシ子 菅原謙次
3期生 愛川欽也 安井昌二 渡辺美佐子 江幡高志 穂積隆信
4期生 仲代達矢 佐藤慶 佐藤允 中谷一郎(中退)宇津井健
5期生 平幹二郎 (中退)藤田敏八 ジェームス三木
6期生 市原悦子 近藤洋介 大山のぶ代
7期生 井川比佐志 田中邦衛 露口茂 山本學 藤巻潤 藤岡重慶
8期生 河内桃子 山崎努 水野久美 嵐圭史 山本耕一
9期生 菅貫太郎 富士真奈美 柳生博
10期生 砂塚秀夫 中野誠也 西沢利明
11期生 勝呂誉 工藤堅太郎 岩本多代
12期生 山本圭 成田三樹夫 伊藤孝雄 中村敦夫 東野英心 松山英太郎 樫山文枝 應蘭芳 長山藍子
13期生 加藤剛 石立鉄男 佐藤友美 細川俊之 横内正 佐藤オリエ 真屋順子 新克利
14期生 清水紘治 吉田日出子 辻萬長 樋浦勉
15期生 栗原小巻 原田芳雄 夏八木勲 前田吟 地井武男 林隆三 河原崎次郎 高橋長英 竜崎勝 村井国夫 小野武彦 秋野太作 赤座美代子 浜畑賢吉
16期生 太地喜和子 峰岸徹 古谷一行 河原崎健三 大出俊
無名塾出身俳優
公募前 神崎愛
1期生 隆大介
2期生 役所広司
3期生 岡本舞
4期生 益岡徹
9期生 若村麻由美
11期生 渡辺梓
22期生 真木よう子 滝藤賢一
戦後俳優座を率いて大きく育てた千田是也は、俳優座の経営を支えるため、およそ100本ほどの映画に出演、東映では26本の作品に出ました。
劇団 民芸 滝沢修 宇野重吉
1945年11月、東宝の後援で、演出家の久保栄、元新協劇団滝沢修、元新築地劇団薄田研二を中心に、築地小劇場を創設した土方与志を顧問にむかえ、文学座を脱退した森雅之など参加して東京芸術劇場(東芸)が結成されます。翌年には附属演劇研究所を創設し、生徒を募集すると大滝秀治、西村晃、菅井きんなどが入所しました。
また、1946年1月には村山知義が再度、新協劇団(第二次)を創設、土方与志、宇野重吉、三島雅夫、元桜組佐野浅夫、新派の井上正夫など参加しました。その後、千石規子、岡田英次、下條正巳、杉浦直樹、内田良平などが加入します。
そして、1946年9月に東京芸術劇場と新協劇団が合同で帝国劇場で『どん底』を上演しました。
しかし、1947年3月、久保との対立で滝沢修が脱退、東芸も解体し、滝沢は東宝をバックに7月、新協劇団宇野重吉とともに民衆芸術劇場(第一次民藝)を結成、東芸の森雅之、清水将夫、新協劇団を離れフリーの加藤嘉、東宝から山口淑子、夏川静江などが参加しました。東芸解体で薄田研二は村山の新協劇団に入団します。
1950年4月、滝沢修と宇野重吉は、清水将夫、加藤嘉、北林谷栄、鈴木瑞穂、内藤武敏、芦田伸介、細川ちか子、下元勉、山内明、佐野浅夫、多々良純、奈良岡朋子、大滝秀治たちと共に、前年7月に解散した第一次民藝を復活し劇団 民藝(第二次民藝)を創立、民衆に根差した演劇芸術を目指し、演劇活動を再開しました。
1954年には、製作を再開した日活と提携、劇団員は日活映画に数多く出演します。
その後、新たに入団した、樫山文枝、日色ともゑがNHKの朝ドラに主演し人気を集め、米倉斉加年、吉行和子、中尾彬など個性的な俳優も活躍するなど、劇団 民藝は、文学座、劇団 俳優座とともに日本の新劇界を支えていきました。
1950年設立 劇団 民藝俳優
元所属俳優
滝沢修 宇野重吉 清水将夫 大滝秀治 米倉斉加年 吉行和子 中尾彬 北林谷栄 多々良純 望月優子 加藤嘉 山内明 細川ちか子 芦田伸介 佐野浅夫 下條正巳 下元勉 信欣三 鈴木瑞穂 内藤武敏 三崎千恵子 有馬稲子 草薙幸二郎 真野響子 南風洋子 山田康雄 綿引勝彦 いっこく堂
現所属俳優
奈良岡朋子 樫山文枝 日色ともゑ 伊藤孝雄
劇団 民藝を創設した滝沢修、宇野重吉は映画にも数多く出演、滝沢は140本、宇野は180本ほどの映画に出ましたが、東映には滝沢12本、宇野は7作品でした。
1951年東横映画『風にそよぐ葦』春原正久監督には劇団 民藝から宇野重吉、滝沢修、加藤嘉、俳優座から千田是也、小沢栄太郎、新協劇団から薄田研二、岡田英次、三島雅夫、文学座から長岡輝子が出演しました。