踊る阿呆
中学生のころオフコースが流行り、小田和正さんの愛を誓う歌詞にやられた。自分もこういう風に生きたいと思ったが、愛の誓い聞いてくれる人がいなかった。おなじころ、アメリカのプロバスケットボールリーグNBAの選手たちが来日し、代々木体育館で試合を披露してくれた。バスケット部に所属していたぼくはすっかり感化され、NBAの名コーチの本を購入してNBA式の練習哲学を部活に取り入れようとして失敗。顧問に意見をしてキャプテンをクビになった。
クラスメイトにギターの上手いヤツがいて、すごくモテていた。これはマネをするしかないと、お年玉をつぎ込んでヤマハのエレキギターを購入。練習本を買いこんで練習したが、一向に上手くならなかった。押さえられるはずのコードが上手く押さえられない。ギターを思うままに演奏するには腕と指が短すぎた。身体的特徴はイカンともしがたく、ギターは部屋のお洒落なアクセサリーとなった。
高校に入り、今度こそ、とバスケットボールに打ち込んだが、ブランクは大きく自信のあったはずの技術が高校レベルではまったく通用しなかった。体の大きさもスピードもバスケットに向いていなかったのである。かといってそう簡単にあきらめられる訳もなく、何とかしようと部活の練習後に時間の許す限りシュート練習や基礎練習をしつづけたが、効果があったのは学校の球技大会くらいのものであった。
高校卒業を前にして、2年間想いをあたためていた同級生に告白。彼女はデートの誘いに応じてくれたが、恋愛関係に持ちこむことはできず、そのあまりに素直で潔い素敵な断り方にグゥの音も出なかった。さすがはオレが惚れた女性だ、などと自分を慰めてはみたものの悩める高校生は受験に失敗し、浪人生活へ突入した。次の年、何とか大学生になったが今度は単位を取れず、進級に失敗した。
とにかく何をやっても思う通りにいかない。ぼくにとって青春とは、まさに身悶えそのものであった。青春時代は、そういった経験を否応なくできる貴重な時期だと思う。現代の若者たちにも是非、失敗を恐れず正しく身悶えをしていただきたい。下手なノウハウ本や成功本などをたよりに、ガイド通り他人の描いた道を正しく効率的に歩んでも、その先にあるのは自分ではない他のだれかの人生であるからだ。
泣いても笑っても、たった一度きりの人生である。たとえ道に迷っても、もがいてばかりで進めていないように感じていても、自らの描いた道さえ歩んでいれば、人生はきっとあなたのものでありつづける。人生は遠回りしたほうが味わいが深く広くなると感じるのは、ジジイになった証拠なのだろうか。
世界で初めてノーベル賞受賞を拒否したことで知られるフランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルは、個人の選択の自由がもたらす孤独と苦しさを指摘しつつも、それが影響を及ぼす社会に対して、主体的に意識をもって参画せよと「アンガージュマン」を唱えた。自由とは苦しいものなのだ。どうせならば社会の形成に積極的に身悶え関与せよ、とサルトルは説く。
失敗を恐れず己の人生を試し、問いつづけもがきつづけることは、その思考や行動自体が社会に影響を与えるということであろう。であるならば、もがきまくって身悶えつづけ己の人生を積極的に踊ろうではないか。
「踊る阿呆にみる阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々」。
どうせ生きるのなら是非、踊る阿呆でいたいと思うのである。