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トランプ2.0の時代―「知」の変容と経済安全保障の再編


ドナルド・トランプ氏が再びアメリカ合衆国大統領の職に就く。前回政権でアメリカ・ファーストを掲げたトランプ氏は、大規模な関税引き上げや技術輸出規制、対中強硬策などを通じて世界経済の骨格を揺るがした。このたびの"トランプ2.0"は、米中デカップリング(切り離し)やサプライチェーン分断を一段と推し進め、諸国の安全保障や産業戦略に大きな影響を及ぼすと見られる。こうした国際政治・経済の激動を読み解くうえで参考になるのが、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの論じた「ポストモダン」状況――すなわち、大きな物語(メタナラティブ)の崩壊と、知のパフォーマティビティ(遂行性重視)という視点である。

もっとも、ポストモダンという言葉は、ともすると相対主義と結び付けられがちであり、日本社会での受け止め方も一様ではない。たとえば、故・石原慎太郎氏が晩年に述べていた"垂直の情念や倫理観を失うことが人間にとってどれほど致命的か"という問いかけは、ポストモダンの多元性とは別の角度から、日本の物欲第一主義を厳しく批判し、戦後長らく享受した"平和の毒"によって祖先への思いや公的精神が希薄化していると嘆くものだった。氏の姿勢を全的に支持するわけではないが、戦後平和に慣れきった日本が物欲優先に陥っていることへの警鐘は、ポストモダン状況下の倫理の希薄化を別の観点から示唆するものとして、ここに引き合いに出しておく。

本稿では、まず歴史的な観点から知の位置づけがどのように変遷してきたかを整理し、ついでトランプ2.0とサプライチェーン分断、SNS時代の情報環境、知的財産保護制度を含む新たな行動変容の枠組みについて考察する。最終的には、日本が経済安保、スタートアップエコシステムの強化や“投資大国”への転換、地方創生といった取り組みをどう結びつけるか、また“垂直の倫理”をどう再定義するかという問題意識を提示してみたい。


知のあり方の歴史的変遷:
大きな物語からパフォーマンスへ

前近代:宗教と伝承が織りなす垂直の世界観

人類史を俯瞰すると、前近代では神話・宗教・伝承が社会の基盤となり、権威と道徳の頂点に“超越的存在”が位置付けられていた。ヨーロッパではカトリック教会が神学を絶対視し、日本でも神仏や先祖への畏敬、儒教的な倫理観が人々の価値観を形作っていた。こうした“垂直の倫理”は、石原慎太郎氏が後年に嘆く"何者も畏れぬ個人主義"への対極として、個人の利己心を抑制し共同体の秩序を守る機能を果たしたといえる。

近代:科学革命と啓蒙主義の大きな物語

ルネサンスや宗教改革、科学革命を経て、近代社会では“理性と科学技術が世界を進歩させる”という啓蒙主義的なメタナラティブが強い力を持つようになる。ガリレオやニュートンの自然科学が権威を獲得し、産業革命によって物質的豊かさが急速に拡大した。日本も明治維新を機に欧米列強の科学・産業技術を取り込み、“富国強兵”と“殖産興業”を国家的目標として掲げることで列強に追いつこうとした。
この過程で、武士道や儒教思想が帯びていた“垂直の精神”は急速に改変され、近代国家としての合理性と軍事・産業の効率性が前面に立つ。科学や法制度が整備される一方、ややもすると“神仏や祖先への敬意”が後景に退き、個人の欲望や物質的豊かさを重視する“水平”の価値観が台頭する下地が生まれたと言える。

20世紀後半:大きな物語の崩壊とポストモダン化

二度の世界大戦と東西冷戦、核兵器の脅威、メディア技術の発達により、人々が信じていた“啓蒙主義”や“社会主義”など壮大なイデオロギーは大きく揺らぐ。フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールはこれを「大きな物語の崩壊」と捉え、もはや一元的な正しさでは社会をまとめきれない“ポストモダン状況”に突入したと論じた。そこでは、知識や科学も“真理”よりも“どれだけ成果を上げるか”――すなわちパフォーマンス――で正当化される傾向が強まる。
日本では高度経済成長やバブル期に象徴されるように、企業の業績や効率性、GDPの伸びが最優先される経済中心主義が浸透し、長らく安定した平和と繁栄を謳歌した。しかし、石原氏の言葉を借りれば、それが"平和の毒"として働き、人々の精神性や“垂直の倫理”を徐々に蝕んでいる可能性も指摘できる。

21世紀:SNSと情報商材が示す知のパフォーマティビティ

21世紀に入り、インターネットが世界的に普及すると、個人でも気軽に発信・販売できる“情報商材”の市場が爆発的に拡大した。ノウハウや稼ぎ方を謳うPDF教材やオンライン講座がSNSを通じて大量に宣伝され、誇大広告や詐欺商法まがいの事例も後を絶たない。これは、リオタールが言う“知のパフォーマティビティ”が極端化した一現象といえるだろう。
また、日本社会でも、このSNS時代の風潮と戦後の"物欲第一主義"が結びつき、石原氏が憂えたように"平和ボケした小金欲しさの政治文化"が定着しているのではないかという見方もある。かつて神仏や祖先、あるいは天皇への畏敬を軸として秩序を保っていた日本社会は、ポストモダン状況のなかで大きな転換を迫られている。


トランプ2.0と地政学的緊張の再燃、
サプライチェーン分断の深化

米中対立とデカップリングの行方

ドナルド・トランプ氏の再登板は、世界の地政学的リスクを新たな段階へ進める。前回政権での米中貿易戦争やファーウェイ排除策は、半導体・AI・通信・EVバッテリーなどの分野で中国とアメリカが切り離される、いわゆる“デカップリング”を具体化した。2.0時代には、アメリカはドル決済システムや輸出制裁、特許侵害訴訟など多角的な手段を行使し、中国企業や他の競合国に圧力をかける可能性がさらに高まる。
この背景には、アメリカがグローバルな金融網やルール形成(FCPA、OFACなど)を通じて莫大なパフォーマティビティを発揮できる構造がある。ポストモダン的に言えば、“アメリカの正しさ”も本来はローカルな論理でしかないが、軍事・経済・金融で圧倒的優位を占めているため、実質的に世界へ自国のルールを浸透させる“遂行性”を持っているわけである。

日本のジレンマ:経済安全保障推進法と省庁縦割りの限界

日本にとっては、対米同盟を維持しながら中国市場を無視できないというジレンマがさらに深刻化するだろう。自動車産業や家電産業など中国依存度が高い企業が多く、早急な“脱中国”は難しい。一方で、安全保障上は米国主導の枠組みに積極参加せざるをえず、新たな外交・防衛の緊張に巻き込まれる懸念がある。
国内では経済安全保障推進法が施行され、サプライチェーン強靱化や先端技術の保護、インフラ防護などを通じて地政学リスクへの対応を急いでいる。ただ、従来型の行財政改革や省庁縦割りを超えた統合的な“経済・外交・軍事・技術”の戦略構築がなければ、トランプ2.0の大波を乗り切るのは難しいと考えられる。


SNS・情報商材・コンプライアンス強化の交錯:
知の武器化と日本社会

SNSと情報商材がもたらす水平化と倫理の空洞化

SNS時代には誰もがコンテンツを発信・マネタイズできる半面、誇大広告やフェイクニュースが際限なく拡散するリスクが高い。特に“誰でも簡単に稼げる”といった情報商材ビジネスは、学問的検証を経ずに“成果”だけをアピールしやすく、消費者トラブルの報告が増えている。石原慎太郎氏の言う"物欲第一の時代"を象徴する動きともいえよう。これはリオタール的に見れば、メタナラティブなき社会が知を“パフォーマンス”でのみ評価する極端化の一例でもある。

コンプライアンスと地政学リスク:企業の知財戦略をめぐる課題

一方、企業はアメリカや中国など各国の輸出管理や制裁法に配慮しつつ、サプライチェーンの見直しや法令遵守を強いられる厳しい時代に突入した。日本の企業や大学・研究機関も、経済安全保障推進法や他国の法規制を同時に遵守するコンプライアンス体制を整えなければならないが、これは極めて煩雑な作業である。
さらに、世界的な技術覇権競争が激化するなか、知的財産(IP)の価値が一段と高まっている。特許・商標・著作権・営業秘密といった保護制度をめぐる紛争は、対米・対中を軸に熾烈化の一途をたどる。日本企業が革新的な技術や製法を保持している場合でも、それが第三国へ不正流出したり、模倣品が国際市場で出回ったりする可能性もあるため、グローバルに通用するIP保護戦略が欠かせない。

日本の近代的な特許制度は明治期に欧米法を参考に導入された歴史があり、“輸入”された制度を整備・改良することで産業発展に寄与してきた。戦後の復興期や高度成長期には、特許や商標の国内整備が進む一方、やがて国際社会の中でTRIPS協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)をはじめとする多国間ルールに適合する努力も求められた。現代では、知財侵害の国際紛争が企業活動に即大きなダメージを与えうるため、日本企業は国際標準化団体(ISO、IEC、3GPPなど)での特許戦略や標準必須特許(SEP)の管理にも本格的に取り組まねばならない。技術力があっても、ルール形成で後れを取ると競合国に主導権を奪われるため、大学や公的研究機関とも連携しながら、国としての総合力で戦う必要がある。


日本における行動変容:
国家・企業・個人

国家レベル:新たな改革枠組みとしての統合的経済安全保障

日本政府は経済安全保障推進法を施行し、サプライチェーン強靱化やインフラ防護などを進めているが、トランプ2.0の混沌に対応するには従来の枠組みを超えた大胆な改革が必要だ。外交・防衛・技術政策・経済政策が統合される司令塔機能を強化し、研究資金や制度設計を迅速かつ総合的に行える体制を構築する。たとえばアメリカのDARPA的な先進研究支援組織や、欧州が進める産業政策との協調を参考にしながら、自国の知財保護や標準化戦略を打ち出すことが急がれる。
また、スタートアップエコシステムの育成を急ぎ、“投資大国”として国内外の資金・人材を呼び込む仕掛けが不可欠だ。大学発ベンチャーへの支援や地方創生と結びつけることで、東京一極集中を緩和しつつ新産業の拠点を地域に多数生み出す。歴史的には、日本は明治維新以降、欧米の法制度や技術を積極的に吸収・改良して近代化を遂げた実績がある。その延長線上で、多極化する国際社会でこそ自らがルール形成の一部を担い、イノベーション拠点を国内に育てることが、安全保障と経済繁栄を両立させる道となろう。

企業レベル:ルール形成戦略と大学との協創、知財法の活用

企業側にとっては、“輸出管理や経済制裁への対応”といったコンプライアンス強化に加えて、知財法を武器としたルール形成戦略が不可避になる。具体的には、「国際標準化団体や特許プール、ライセンス交渉の場で技術を世界標準として位置づけること」「裁判リスクを見越し、SEP(標準必須特許)やコア特許の取得・管理を徹底すること」「営業秘密やノウハウを不正流出させないセキュリティ体制の再構築」「商標・意匠法、著作権法も含めたクロスボーダー保護体制の整備」を同時に進めなくてはならない。近年の国際紛争では、たとえ自国で勝訴しても他国で訴訟に敗れ、製品販売差し止めや莫大なライセンス費用を背負う例も珍しくない。アメリカや中国、EUが独自の法解釈を強化するなか、日本企業は早い段階で知財ポートフォリオをグローバル管理し、大学との協創による先端研究成果を的確に権利化しておく必要がある。
大学との協創においても、論文を出して終わりではなく、特許出願の優先度や共同研究契約の枠組み、国際標準化への提案活動などを初期段階から視野に入れるべきだ。日本史を振り返っても、幕末維新や戦後復興期には、欧米の技術や制度を柔軟に取り入れ、企業と官・学が共に走る“官民協働”が行われた実績がある。その知見を現代版にアップデートし、ルール形成と研究を一体で推進する体制づくりが必須となる。

個人レベル:情報リテラシーと価値観の問い直し

個人においては、SNS上の情報商材やフェイクニュースに振り回されず、確かな根拠と長期的視点に基づき学び・投資を行う“情報リテラシー”が要となる。消費者トラブルだけでなく、労働市場や副業ブームの中でのリスクも高まっているため、キャリア形成や資産運用を冷静に判断する必要がある。
さらに、“垂直の情念や倫理観”を見失わないためにも、自分を超えた存在――歴史や伝統、地域コミュニティ――への理解を深めることが重要になる。石原慎太郎氏の言う"父祖が命を捧げた国への想い"は、国粋的・排外的なナショナリズムとは異なる次元で、“公を想う心”や“奉仕の精神”として再評価される余地があるだろう。地方創生で地域の文化や祭りを再興する動きは、経済活性化だけでなく、人々が“横”の利害を超える絆を取り戻す一助ともなり得る。


結びにかえて:
垂直の情念とポストモダンの多元性を
どう活かすか

トランプ2.0による国際秩序の変動は、ポストモダン社会が抱える“メタナラティブなき混沌”を改めて浮き彫りにしている。近代のような“科学万能”や“普遍的進歩”といった大きな物語では今の世界を説明しきれず、各国が自国のローカルな物語を押し出し合う局面が一段と拡大するだろう。一方で、SNSや情報商材が示すように、個人レベルでも“成果”や“物欲”を強調するパフォーマンス重視の言説が氾濫し、“垂直の倫理”が希薄化するリスクも高まっている。

しかし、石原慎太郎氏が苦言を呈したように、“平和の毒”ともいうべき戦後日本の物欲第一主義を見直し、先人たちの犠牲や歴史を知ることで、私たちの“垂直の情念”や“公共性”を再確認する契機とすることは可能ではないか。かといって、前近代への回帰や一国主義を唱えても、ポストモダン状況がもたらす国際競争や技術革新の潮流を止めることはできない。ならば、両者を共存させる新しい秩序創造に挑むことが求められる。

経済安全保障を外交・防衛・技術政策と統合し、知財戦略を柱としたルール形成に積極的に参画し、スタートアップエコシステムと投資大国化で地方をも巻き込んだ躍動を生み出す。そこに、戦後平和の恩恵を軽視しない姿勢や父祖への敬意が交われば、日本は世界的な激動を新しい創造に結びつけられるかもしれない。その際、石原氏の提起した"垂直の情念"が単なるノスタルジーや排外主義に終わるのではなく、ポストモダンの多元性と結びつきつつ、大きな物語を失った時代においても人々が自分を超えるものを想像し、相互に支え合う社会基盤をつくる手助けになるはずだ。

こうした視点に立てば、トランプ2.0による世界の再編は、日本が自国の価値と強みを再考し、新たな秩序創造に積極的に関わっていくための好機とも捉えられる。物欲やエゴイズムにのみ左右されない、しかしパフォーマンスを厭わずイノベーションを推進する――そんな“垂直”と“水平”の融合こそが、ポストモダン時代の新たな改革枠組みとして、日本が掲げうる大いなるビジョンであるように思われる。


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