【エッセイ】「少読」のすすめ
「一年で1000冊読んだ」などと自慢気に語る人がいます。
それを聞くと真っ先に「もったいない」と思ってしまいます。
「回転寿司で30皿平らげた」というエピソードを聞いたときのような残念さを感じます。
近年、「速読法」なる読書法が開発され、流行しています。
一方で、これに対抗する形で「遅読」という読書法も提唱されました。
しかし、私は読書速度そのものは些末な問題だと思っています。
読書は、読書している時間のみに楽しみがあると考えるのは誤りです。
本を読んだ後に、その内容について自分で考えてみたり、現実や現代社会に当てはめて考えてみたりすることが重要です。
特に小説であれば、世界観にひたる、登場人物の心理を想像する、人物の行動や発言の意図を推察するなど、本を読んだ「後」の楽しみも大きいです。
一般的に、速読で本をたくさん読むと、「読書後の楽しみ」は失われることが多いです。
遅読も、速読と比べれば読書後の楽しみがあると言えますが、単に「遅く読む」ということが目的になるなら十分とは言えません。
そこで私は、「速読」「遅読」に対して「少読」という概念を提唱し、これを勧めたいと思います。
「少読」を裏付けるものとして、ショーペンハウアーの「読書について」における見解を挙げることができます。
彼は「読書は他人の頭で考えてもらう行為である」と言っています。
フリードリヒ・ニーチェはこれを踏まえて「読書をするのは怠け者である」と述べています。
しかし、二人とも読書の価値自体を否定しているわけではありません。彼らは、読書と積極的に関わることで自身の思想を確立しました。
彼らが批判しているのは「本を読むだけ」で自ら考えない態度です。
本を読むこと自体は「他人に考えてもらうこと」だとしても、その考えを踏み台として、自分なりに考察することは可能です。
読書は、他人の視点や知識を吸収し、それを基に自分自身の思考を深めるための手段とするべきです。
したがって、「少読」の概念は、単に本を少なく読むという意味ではなく、一冊一冊を深く読み、その内容についてじっくり考え、自分の理解を深めることを重視します。
本の量よりも質を重視し、読書後の考察や楽しみを大切にすることで、より豊かな読書体験が得られると信じています。