詩|洞爺湖畔から
早春、風に吹かれて、一枚の枯葉がかさかさところがってゆく。土の上で雪のしめりに耐え、その後の陽のかわきに耐え、葉っぱが湖畔をめぐる道の上をかさかさ喜ぶように身を踊らせてゆく。葉っぱは去年の秋枯れて、冬の始めに樹の枝からはらりと離れた。身をぼろぼろに砕かれた葉も数多くある中で、生き残っていま生き生きと早春をころげ回っている。
この早春の音は、去年の晩秋の音でもある。つまりいま晩秋と早春がいっしょに鳴っているのだ。終わりかけのものが、始まりかけだった。終わると思っていたものは、終わらなかった。耳をすますと、夏もともに聞こえる気がする。夏も終わらなかった。枯葉が枝上で芽吹いた昨春、その音。それもまだ終わっていない。赤ちゃんは大きな声でよく泣くが、それが本当は何を意味しているのか、大人には聞き届けにくい。芽吹いた瞬間が赤ちゃんだとしたら、枯葉はいま老境だろうか。嗄れ声がかさかさ。
芽吹いた瞬間の声。そしていま、擦音を立て風まかせにころがっている声。そこにあるよろこび、かなしみ、あるいは私にはまだ分かり得ぬもの。それはさておき、ともかく昨年の早春が今年の早春に鳴っている。神秘的な同じ音で。枯葉はやがて土中に溶け、再び樹上に芽吹く。命はめぐる。葉はそれに気づくこともなく、名づけることもない。ただ生まれ変わる。あの遠くの山の稜線と境目をなす大空の青。くっきりとした鮮やかさ。少しずつ吐く息が透明になってゆく。ここにも晩冬と早春との同じ鼓動がある。
アオサギが湖畔に現れる。散歩道沿いにある岸辺のやや南側にいつも止まっている。しかし、そこがキャンプ場に隣接しているため、シーズンになるとこちらに徐々に近づいてくる。段々鮮明に姿を確認できるようになる。私が近づくと警戒してすぐ行ってしまうが。ある日、そのアオサギが季節を告げずに永遠に飛び去ってしまった。翼をゆっくり豊かに上下させ湖面を滑る。その優雅な後ろ姿。湖面は波一つ立てずに、穏やかに空の青を映している。私は季節を一瞬見失う。その時、湖と一体になっている。四季は一時失われ、ただ余韻と美しさだけが残る。
早春は世界に気がついているのだろうか。鳥や動物に対しては同類のものとして認めている気がする。しかし恐らく私がいることには気がついていない。つまり私の方が影の存在なのだ。しかしそのことがなんとなく心地良いのはなぜか。地球の影にいて、許されている。包まれている。私はいま、早春に生き、晩秋に生き、晩冬にも、夏にも生きている。たぶん来年の早春につながるものの中にも。
(R6.9.28付『室蘭民報』四季風彩欄 掲載)