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エッセイ|どこからでも飛んでくる言葉

以下は、月刊詩誌『詩人会議』'24年3月号「詩作入門」のコーナーに掲載された私のエッセイです。

どこからでも飛んでくる言葉   あさぎ とち
 
  
 
水は器に合わせ
形を変えるでしょう
 
いつか 思いもよらぬ時に
 
だから強く願わなくてもいいのです
安心する必要もないし 
不安になる必要もないのです
 
ちょうどよくわかっているのですから
 
ヒトの大部分は水でできているのです
 
 私は身体化障害という精神領域と整形外科領域が重なった少し難しい病気を抱えています。この詩は最初自分でも不思議な印象で出来ました。いざ見直すとなんとなく教条めいた硬い感じになっていることに気がつきますが、病と向き合い、焦り、弱気になっている自分を落ち着かせる意図がまずありました。つまり自分自身を諭しているのです。それをそのまま詩、としました。

 さて、肝心の意味内容ですが、これがよく考えて書いたわけではありません。ふと浮かんだ意識を反射神経で捉えて、ほぼひと息で走り書いたもので、このひと息で捉える、ということも私の体力事情を反映したものですが(初期作品の多い処女詩集に短詩が多いのは、そのためです)。幸か不幸か、この頃は詩を書く際に「ひと息にこめる」ある意味で大事な習慣ができていました。

 まず人間は七〇%が水分であることに気づきました。その〝水〟が体という器に入っている。それはただの水ではなく、精神や感情も備えています。人間が不安に思ったり何を思ったりしても、結局ちょうどその人なりの七〇%くらいになるようにできている。ちょうどよくわかっている。だから感情の方もいつまでもクヨクヨしてもしょうがないのではないか、と考えました。逆方向の安心という感情についてもそうです。安心を求めるために私たちは薬を飲んだりトレーニングをしたりしますが、そうやっても理想の結果を得られないと不安になります。だからやはり〝安心〟を生きる絶対基準としてしまうのも違うのではないかと感じます。釈尊の言う通り人間は生老病死を避けられません。それに思い煩いすぎても仕方がありません。

 それが、第三連〈だから強く願わなくてもいいのです/安心する必要もないし/不安になる必要もないのです〉に結びついている気がします。
 人が〝求めて〟しまうのは〝不足〟の気持ちがあるからです。今の状態では不足だ、不満だと。さらに言えば求めること自体そのものです。その思考のクセを一旦横へ置けば落ち着きの方向へ向かうのではないかという自分への提議がありました。古の知恵は少欲知足という言葉を残してくれています。物事に満足し感謝する思考。これらの縄文時代的な感性が、無意識下で己に真理と必要性を訴えているようでした。 それにより、何より自分が救われるのではないか――と思ったことが、ふと浮かんだ詩句の源にあります。また、それを普遍性として提示できるのではないか、と考えた理由があります。 

 よく考えると、最初は格好いい詩を書こうと思ったわけではありません。自分を落ち着かせるために自分に贈った言葉が、後から、あ、詩だな、これ、という段階に至ったのです。言葉はいつ、どのような方向から来るか分かりません。私は寝る時にも枕元にノートとペンを置いて、意識と無意識の狭間にある言葉にも極力対応できるようにしています。そして後から、あ、これ詩だな、成り立つなと思ったら、単なるメモ書きから詩のカテゴリーに移して、言葉の足し引きや推敲などの本格的な作品制作に入ります。結果、思いもよらぬ方向から飛んでくる詩ですねと言われる作品が出来上がったりします。詩作には色々なやり方、入り口、きっかけがあると思います。どれも有効であると思います。その瞬間に落ちてくる言の葉は、自分をも奮い立たせ感動させる葉であるのかも知れません。その人それぞれの人生や時間がありますから全てを拾うわけにはいかないでしょうが、それを極力見落とさないことが、詩の創造性を喜ばせることにも繋がると思います。


(月刊詩誌『詩人会議』'24年3月号 掲載)
 

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