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「やる気」という見立てを疑う

子どもに日々やる気を問う親たち教師たちはやる気があるんだろうか。(2021.2.8)

相手のやる気を削ぎたいなら方法は簡単で、相手のネガティブな過去を蒸し返してそれを叩けばいいのだが、そのことをやる気を出してほしいはずの子供にする親の多さ。(2023.12.23)

うちの子は全然やる気がない、偏差値が伸びなくて未来がないって思ってる親は、自分がいかに奇妙で差別的なことを考えてるかに気づいてほしい。その焦りは自信のない自分が作り出したもので、全然本当ではない。(2023.10.4)

たくさん子供の勉強を見てきましたが、夢や目標がある子は頑張れて、そうじゃない子は頑張れないという傾向は見られません。勉強のやる気ないからといって夢を実現させる力が弱いというわけでもありません。(2020.12.12)

 やる気のない子は存在しません。彼らはたまたまやる気がない状態なだけです。『おやときどきこども』
 これは詭弁じゃないです。この子はやる気のない子という捉え方はやめたほうがいい。(2022.4.23)

 受験が近づくとかえってやる気がなくなっていく受験生というのは、「勉強のやる気がない」という言葉で片づけられるレベルではない煩悶を抱えている場合があります。先の見えない進路に対する不安と絶望を抱えていることが多いのです。そんな子に対して「やる気がない」「がんばりなさい」と責め続けるのは酷です。その子は頑張ること自体に無力感を感じているのですから、やる気がないことや頑張らないことを責めても解決しないどころか、本人を追い込み、さらなる自暴自棄に追い込むだけです。そんなことになるなら、なるようになったらいいと覚悟を決めて放っておいたほうがずっとましな結果になるでしょう。
 思春期の子どもたちは、自分の葛藤を親に語れるほど自分の言葉を持っていないし、そもそもあまりに考えが錯綜していてまとまりがないので、それを言葉にして伝えるのは至難の業です。やる気が見えない子どもに対して「あなたの考えはどうなの?」「自分の考えをちゃんと話してみなさい」と問い詰める親や指導者が多いのですが、大人でも「自分の考えを言え」と言われたら簡単に言えないのに、それを思春期の子どもに求めるなんて無理難題です。自分の考えを述べるためには、自分という存在を客観視しながら自分を見つめる作業が不可欠ですが、思春期の子どもは人生の中でそれを始めたばかりで未熟なのです。
 だから、子どもの意志を求める大人は、子どもに責任を押しつけたいからそうなっていることに気づくべきです。大人ができるのは、子どもの意思の芽生えを待ちながら、ときにそれを支えることであり、例えば、自分(子ども自身)がどんな状況でも、学校から家に帰れば美味しいご飯があって、機嫌がいい親がいる。たったそれだけのことで、子どもが家庭での安心を根拠地にして「頑張る」ということを試し出すものです。
 子どものやる気がなくて心配なときには、子どもに意志を求めるよりも、その心に気持ちのいい風を通してあげることを考えてみてください。(2023.10.2 西日本新聞)

もし同僚が教室の会社名を「やる気スイッチグループ」にする案を出してきたら秒でそれはないと言うな。(2023.6.29)

 昨日訪問した三陸駒舎で聞いたことだけど、普段全然勉強しないある子が、馬などの動物がいる他は畑と川しかないような三陸駒舎に来たら、誰もすすめてないのにおもむろに勉強をし始めたそう。これは別に都会の子が自然の中にきたら勉強をし始めるというような魔訶不思議現象について話したいのではない。
 ある子が「勉強しない」という状況のときに周りの大人はその子が「勉強する」子どもに変えようと、言い換えれば「やる気のある」子どもになってもらおうと、直接その子に働きかけるのだけどこれが間違っている。 その子は「やる気のない子」だから勉強をしないのではなく、ある環境とサイクルの中で「やる気のない状態」になっているだけ。この意味で「やる気のない子」は存在しない。つまり、やる気のなさを責めるからその子は「やる気のない子」を内面化してしまうだけ。
 子供に変化を起こしたいのであれば、必要なのはその子の「周り」を変化させることであり、もしそれができないのであれば、その子のやる気のせいにするのではなく(親が子供に声掛けをする自身の非力さを自責するのでもなく)、その子はいまの状況の中でそれなりにやっているということを認めてあげなければ。これらは、ある職場のある人についても当てはまる話かもしれない。(2024.5.13)

 子どもにやる気がないと言う親は、自分が子どものやる気を踏みつぶしていることに気づいてない。子どものせいにしてやれという意志さえ感じることさえある。これについては『親子の手帖』にも書いたが、疑問に思える子はまだよくて、自分の弱さを内在化していく子の方が多い。
 厳密にいえば、やる気なんてものはもともとなくて「やる気を出せ」という振りのせいでその逆の「やる気がない」が現出するに過ぎない。子供は複雑な感情を持っているのに「やる気がない」という言葉によって自己理解が単純化され「やる気がない私」を内面化させてしまう。(2021.7.4)

 勉強に対する子供の「やる気がない」という親の嘆きは、現在の子供の内面を責める形で表出するが、その時に親が見て見ぬ振りをしているのは、子供がいかなる時間を過ごしてきたかという歴史の問題であり、その歴史には当然親も含まれる。このことに自覚的であれば、勉強しない子供のやる気を一方的に責めるようなことはできない。それは現在の子供のせいにできるような単純な話ではないからだ。
 しかしここで厄介なのは親は子供のことを熟知しているからこそ「やる気」がない原因を子供自身に見出し易い点であり、親のこうした理解は子供の精神的支えでもあるし、そういう熟知性に基づいた「やる気がない」分析を間違いと断ずることはできない。
 要は、親自身を含めた外的要因を先に明らめることなしに子供のせいにすると、子供は身動きが取れなくなるということで、やる気がない理由を子供自身に帰することが常に間違っているわけではない。(2023.9.4)


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