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アイヌの歴史について調べてみました。

アイヌの文化については凄く興味があって、いろいろ簡単に調べてみたりして、アイヌの世界観とか凄く共感できる事が多かったので、いつか自分なりに文章にまとめてみたいな、と思っていたので、そろそろ重い腰を上げようと思って書き始めてみました。


・・・で、どこからまとめようか・・・と思ったのですが、やはりアイヌの歴史から振り返った方がよいかなぁと思ってまずは歴史から調べていこうと思います。

アイヌの歴史 (Wikipediaより)

まず年表から見ていこうと思います。
年表って結構好きなんですよね、なんだかワクワクしますよね。

アイヌの歴史 Wikipediaより

まず、北海道はでっかいので、4つの地域でそれぞれ歴史や文化が違うようです。

道南・道央・道北・道東、の4つの地域に分かれていますが、北海道に10年以上住んでいる僕も、この4つの区分けがどういう区分けなのか実はよく分かってなかったりします。

http://www.n43.net/onsen/mapnavi.htm
上記サイト(地図で探そう北海道の温泉)より
https://tabikura-bike.com/archives/2938
北海道【道南エリア】 ツーリングスポット一覧ページ より

うーん・・・何だか同じ道南でも範囲が違う考え方もあるようです。

ちなみに、一般的には上の地図の区分けが正解っぽいです。
実際、僕自身は登別市に住んでいますが、みなさん道央という認識です。
北海道に移住してきてすぐの頃は、下の地図のようなイメージでしたので登別市も道南だと思ってました。

登別市はココ。
https://prezo.jp/area/noboribetsu
上記サイト(PREZO) 
 より

明確な定義づけはないが、以下の地域を指すことが多い。渡島総合振興局(図の4番)
檜山振興局(図の5番)

例えば、北海道庁による「地域生活経済圏」では、渡島・檜山の両管内を「道南圏」としており[1]、多くの場合は「道南=渡島・檜山地方」と定義される。

Wikipedia ‐道南‐ より

明確な定義づけはない・・・って調べてみて初めて知りましたけど、ちょっとびっくり。
とりあえず、アイヌの歴史で示されている4つの地域は、上記の上の地図の地域分けをイメージしてもらえるといいと思います。

年表を見ると、日本文化とアイヌ文化が接触してたのって、江戸時代の中期頃までは道南の一部地域だけっぽいですね。
その後、日本文化が入ってきて、江戸時代後期くらいから北海道全土で文化の接触があったような感じです。

アイヌの文化でも、中世とか近世とかあるのも興味深いですね。

アイヌの歴史(アイヌのれきし)では、アイヌ民族の歴史を解説する。歴史区分についてはアイヌ史の時代区分、本州側の歴史上のアイヌ観については蝦夷も参照のこと。

かつて、アイヌは13世紀頃に北海道に移入してきた民族とする説があったが、現在では集団交替説を唱える研究者はおらず、アイヌの歴史は縄文時代からアイヌ文化期まで、周辺文化を選択的に受容しつつ緩やかにかつ連続的に移行していったとするのが定説である[1][2]。こうした考古学的見地は、ヒトゲノムによる研究とも親和的である。縄文時代以降の本州では大陸系集団と混血し和人となったが、北海道では大陸系の影響がほとんどなく、10世紀に道北・道東では南下してきたオホーツク人と15世紀以降に道南では北上してきた和人と僅かに混血したのみで、そのルーツは和人に比べるとより縄文人に近いと考えられている(→アイヌ#遺伝的起源[3][4]

Wikipedia -アイヌの歴史-

集団交替説というのが分からなかったので調べてみたのですが、ちょっと上手く検索できずに二重構造モデルというキーワードが出てきました。

二重構造モデル(にじゅうこうぞうモデル、英語: dual structure model)とは、1991年に埴原和郎が発表した人類学における仮説作業仮説)で、日本人起源論争のうち混血説のひとつ[1][2][3]二重構造説ともいう[2][注釈 1]

埴原は現代日本人に至るまでの形成過程を、石器時代に移動してきた東南アジア起源の縄文人原アジア人)を基層集団とし、そこに弥生時代から古墳時代にかけて移動してきた北東アジア起源の渡来人が覆い被さるように分布した(二重構造)としたうえで、やがて2集団は混血していくがその進行度には地域差があり、形質的な差異を生み出していったと推測した[1][3]

Wikipedia ‐二重構造モデル-

アイヌは、もともと北海道に住んでいた縄文人をルーツにオホーツク人や和人と混血はしてきたものの、縄文人にかなり近い存在、というのが現在の定説のようです。

和人が大陸からの渡来人との混血が進んできた民族とすると、古くから北海道で暮らしていた先住の民族という理解でよさそうです。

最近はこういうのも遺伝子とかの研究で分析できるみたいなのですごいですね。

その一方で、アイヌ文化は何時まで遡れるのかという歴史上の問いがある。アイヌ文化には古くから狩猟採集というイメージがあるが、考古学的な研究により交易を中心とした文化と捉え直されるようになった[5][6]。北海道は古代から周辺地域との交易・交流を通して広域的な文化が接触する領域であった。アイヌはその交易を担っていく中で、周辺地域の文化を選択的に吸収・翻案して独自の文化を形成してきた。アイヌの歴史は、そうした地政的な環境に加えて北海道の自然に根差して生成された独自の文化・民族の変容の過程と言い換えることができる。それゆえアイヌの歴史の解明には考古学的な研究に加えて、本州以南および北東アジア世界との相互依存的・広域的な歴史との関連付けと、北海道の自然環境と生物相も考慮する必要がある[7][8][5]

Wikipedia -アイヌの歴史-

アイヌの人たちは文字を持たなかったので、こういう情報が残されていないというのも興味深いというか、そもそも物を所有するという概念が無かったようなので、自分たちの歴史や文化を後世に残そうという挙動に繋がらなかったのかなぁと思います。

自分たちも含めて自然の一部である、という考え方なんだろうと思いますが、実際にその通りでそれ以外の何物でもないんですけど、現在我々の生活を考えると、どれだけ自然から遠い所で自然の驚異から逃げて暮らしているんだなぁ・・・なんて思うと、よほどアイヌの方が強く生きていたのだなぁと思います。その強さがあったから、物を所有する必要もなかったのだろうと思うと、そういう強い文化を持っていた人たちが私利私欲の物欲による交渉や策略によってもともと住んでいた土地から追われて生活できなくなってしまう経過というのは残酷というか、自然とは強く共存できたのに、人間には騙されて奪われてしまって共存できなかったというのは非情な現実だなぁと思いました。

旧石器時代

2023年現在、北海道内で発見されている最古の旧石器は約3万年から2万5千年前とされている。これらは本州と共通する石器類で、大陸との繋がりは確認できない[9]。2万年頃からナイフ形石器が現れるが、道東では本州にみられない独自の広郷型ナイフ形石器が出土するのに対し、道央から道南では本州と同系統のナイフ形石器が出土している[9]

いっぽうで大陸産の石や琥珀を使った装身具や、鉱物性の顔料には大陸の影響もうかがえる[9]

Wikipedia -アイヌの歴史-

3万年前から石器を使って北海道で人が暮らしていたと思うと凄いなぁと思います。3万年前ですよ、気が遠くなるほど昔ですし、そんな長い時代を考えると、自分がどれだけちっぽけなのか痛感してしまいます。

https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/308961.html
「祖先は丸木舟で? 3万年前の航海に迫る」(くらし☆解説) より

氷河期の時代に凍った海を渡って来たのがご先祖さまみたいですね。
何を目的にここまで歩いてきたのかも不思議ですけど、昔は狩猟生活だった事を考えると、いろんな地域を転々としていたのかもしれませんね。

縄文時代

道内の縄文文化は石狩低湿地帯および黒松内低湿地帯を堺として道東・道央・道南に大別されるが、道南は縄文時代を通じて本州北部と一体の文化圏を形成していた[10]。遺跡としては、苫小牧市静川遺跡(縄文時代中期末から後期初頭)や千歳市丸子山遺跡(縄文中期後半)などの祭祀遺跡、千歳市キウス周堤墓などの共同墓地、函館市垣ノ島遺跡などの集落跡が挙げられる[11]

縄文後期から晩期にかけて葬送儀礼に大きな変化が起こり、環状列石や集団墓地が現れる。キウス周堤墓では土量3400立方メートルにも及ぶ大規模な土木工事が行われており、首長層の存在と土木工事に専従する人員を養う高い生産力を有する社会があったと推定されている[11]。ただし、縄文中期ごろの墓制は首長単独の墓ではなく共同墓地である事が特徴であり、副葬品にも差異はみられず階層化は緩やかであった[13][14][15]

Wikipedia -アイヌの歴史-

縄文時代は、本州とほぼ一緒の文化圏だったようですね。
縄文時代の中期くらいまでは、あまり身分の上下があまりないような社会を形成していたようで、人間って集団を形成してもみんなで一緒にコミュニティを形成できてきたと思うともともと民主主義的な感じだったのかなぁと思うと興味深いですね。

続縄文時代

続縄文時代(紀元前5世紀から紀元後7世紀前半)とは、おおよそ本州以南の弥生時代(続縄文前期)と古墳時代(続縄文後期)に並行する時代区分である[18]。弥生時代に本州では稲作が広まるが、道内の続縄文人はこれを受容せず、本州と毛皮などを交易する商業的狩猟民となった[19]。続縄文文化については稲作文化に比べて劣ったイメージで語られる事が多かったが、藤井強らによってアイヌ文化へと続く北の文化の基礎として高く評価されるようになっている[20]。続縄文後期には道内の続縄文人が東北地方へ南下し、代わって道北から道東にかけてオホーツク人が南下してきた(→#オホーツク文化期[19]

Wikipedia -アイヌの歴史-

ここから本州と北海道での文化の違うというか、アイヌ文化が生まれてくる流れになるようです。
続縄文時代というのは初耳ですが、本州のように弥生時代になるのではなく縄文時代が続いていくという感じなのかなぁ。

続縄文前期

本州で弥生文化が広まっていく中で、道内の続縄文人が稲作を行わなかったのは寒冷な気候によるものとするのが定説だが、青森県でも弥生時代の水田が確認されていることからあえて水田耕作を行わなかったとする説もある[21][22]

続縄文前期でも本州との交易は継続していた。

瀬川拓郎は、稲作を受容しなかった続縄文人は、縄文文化を継承しつつ狩猟により得られた毛皮などを交易に特化した独自の文化を展開していったと推測している[23][21]

この時期、道南では骨角製の銛頭・魚形石器製の疑似餌・マグロなどの回遊魚やオヒョウタラなどの底生魚を対象とする独特な漁撈文化、あるいはオットセイなどを対象とした海獣猟を活発に行うようになる(恵山文化)[24][22]。一方で道北の礼文島浜中2遺跡ではクジラの骨製のアワビ漁の道具や銛、食用にされた弥生犬の骨が出土している[25]。また、せたな町貝取澗2遺跡や余市町フゴッペ洞窟からは卜骨が発見されている[26]。これらの道具類あるいは文化は、同時期の西日本の日本海側から北部九州にみられるものと共通する点が多く、西本豊弘や山浦清らは続縄文人と弥生人の交易を担ったのは九州北部の海民と推測している[24][25]

Wikipedia -アイヌの歴史-

あえて水田耕作をしなかったというのが本当なら、不思議というか、なんでそういう選択をしたのかは知りたいですね。

基本的には本州との交易が盛んにおこなわれていたようで、北海道の毛皮などが交換されていたようです。
同時期に青森県でも弥生時代の水田が作られているので、北海道に近い地域でも人は住んでいたはずなんですけど、交易の多くが九州北部の人というのも面白いというか、なんで?って思いました。

というか、弥生時代の船で北九州から北海道までたどり着けた上に交易してたとか凄いんですけど。

続縄文後期

続縄文文化は、物質面で縄文文化と共通性が高いものの、移動性の高い住居や鉄器の外部依存に本州などに見られない特徴がある。特に本州からもたらされた鉄器によって骨角器が加工されるようになり、皮なめし用の掻器を除けば石器が利用されなくなる[22]

この頃から続縄文社会に対外交易を意識した特定の生産活動の集約化が見られるようになり、近世アイヌ文化期まで継続する交易文化が形成されつつあったと考えられる[30][22]。続縄文時代後期でも集団間に序列はなく、水平的なネットワークを形成していたと考えられている[30]

東北北部では弥生時代後期以降に人口の減少が確認できるが、これと入れ替わるように4世紀には続縄文人が東北北部へ南下していった。その範囲は仙台平野から新潟平野を結ぶラインまで及び、その前線地帯には続縄文人と古墳人が混住する中間地帯があったと考えられている。両者の関係は融和的で、同時期には道内で鉄器の流通が一気に拡大し、一方の古墳社会では道産の毛皮が流通していった[31]。なお東北地方に見られるアイヌ語地名は、この続縄文人の勢力範囲と一致する範囲に濃く分布していることが指摘されている[32][33]

5世紀後半になると古墳社会は北上し、東北北部に奥州市中半入遺跡・八戸市田向冷水遺跡などの集落や七戸町森ヶ沢遺跡の続縄文人の墓が現れるが、これらの遺跡からは古墳文化と続縄文文化の両方の遺物が出土しており、続縄文人と古墳人が雑居する交易拠点であったと考えられる[34][32]。6世紀に古墳社会がさらに北上し、東北地方で続縄文文化はほとんど見つからなくなる。東北地方から両文明の中間地帯は消失したが、両文化の交易は続縄文人が東北北部太平洋沿岸へ季節的に訪れる形で継続された。

7世紀ごろヤマト王権では権威を示すために下賜する品として、北方交易でもたらされるヒグマの毛皮が珍重されていた[35][注釈 3]。北方交易の直接統制を目論んだヤマト王権は、斉明天皇4年(658年)から阿倍比羅夫を派遣し、北方交易を取り仕切っていた東北地方日本海側の蝦夷を討伐し服属させる[36]。さらに北上した阿倍は、斉明天皇6年(660年)に渡島の蝦夷を饗応した。この渡島の蝦夷を続縄文人とする説がある。

Wikipedia -アイヌの歴史-

ずっと北海道から出てなかったイメージだったので、東北地域まで続縄文文化が当時の古墳文化と本州内で共存していたというのは面白いと思いました。

北海道のヒグマの毛皮が重宝されていたのも意外でした。

また、蝦夷って北海道の事を指していると思ってましたが、東北の地域も蝦夷だったんですね。
渡島というのは、”おしま”と読むのですが、だいたい道南の事を指すと思ってもらってよいかと思います。

オホーツク文化期

続縄文時代後期から擦文時代に並行して道北から道東に形成されたオホーツク文化も、アイヌ文化に繋がる源流のひとつと考えられている。オホーツク文化は海獣狩猟と海洋漁撈を生業とした文化である。起源については大陸のウリチ・サハリン在来のニヴフ樺太アイヌ・複数の周辺文化の複合などの諸説があるが、サハリンで形成された文化が北海道本島に南下してきた事は確実視されている。その特徴としては平面形状が五角形・六角形になる独特な竪穴建物にヒグマの骨などを祀る骨塚を設けることが挙げられ、ヒグマ信仰などに近世アイヌの精神文化との関連が指摘されている[27][18][40]

続縄文人とオホーツク人の間に積極的な交流はみられない。両者は空白地帯を挟んで本島を二分し、やがて本州との交易をめぐって対立関係に至ったと考えられる[41]
また日本海沿岸の島嶼(天売島焼尻島奥尻島など)にも拠点を設けたが、この場所をめぐってオホーツク人と続縄文人の間に対立が起こり、ヤマト王権の介入があったと考えられる(→#続縄文後期[41][39]

Wikipedia -アイヌの歴史-

北海道の道北と道東では、オホーツク人による文化が発展したようです。
興味深いのは、このオホーツク人と続縄文人は仲が悪かった感じで対立していたようで、続縄文人がヤマト王権にオホーツク人を追い払ってくれと頼んだみたいです。

ヒグマの骨を祀ったりする文化は、アイヌの文化に繋がっていきそうな感じです。

擦文時代

擦文時代(7世紀後半から13世紀)は、本州の飛鳥時代後期から平安時代に並行する時代区分である。擦文時代は本州と交易を行いつつ文化を選択的に受容した時代で、その文化圏は道南・道央から始まり青森県北部から道東・道北まで広がっていった。生業は狩猟・漁撈・採集を基礎としつつ雑穀栽培[注釈 4]が行われ、石器がほぼ使われなくなり鉄器文化に移行した。また土師器の影響を受けた擦文土器の生産やカマドを設けた竪穴建物、北海道式古墳[注釈 5]などには本州の文化の影響が指摘されている。それらは交易・交流によってもたらされたほか、ヤマト王権の遠征により東北地方から追われた蝦夷の移入もあったと考えられているが、移入の程度や規模については意見が分かれている[49][18][48][44][46]。農耕文化の影響は、信仰面にも及んだと考えられる。アイヌ語の祭祀関係の言葉には、古代日本語からの借用語が多く見られ[注釈 6]、古代日本の信仰の影響を受けた可能性が指摘されている[51]

ヒトゲノムの研究においても、アイヌと和人との混血が進んだ時期が7世紀頃と推定されており、蝦夷の移入をきっかけに続縄文人との混血が進んだと考えられている[52

Wikipedia -アイヌの歴史-

アイヌの文化が、古代日本の信仰の影響を受けていたというのはびっくりしました。

この頃に混血も進んでいったようで、そもそもアイヌと言えども和人やオホーツク人との混血がベースになっているような気もしますね。

中世アイヌ文化期

アイヌ文化期に移行すると、アイヌは本州と北東アジアを結ぶ中継交易を行いつつ周辺文化を吸収して独自の文化を確立していった。その特徴は擦文文化から連続しつつ土器が消滅し、代わって鉄鍋・漆塗椀などを使うことである。また早い時期には日本と大陸両方の陶磁器類が使われていたことも明らかになっている。衣服は伝統的なアットゥシに加えて本州産の小袖などが流通するようになり、住宅は竪穴建物から平地建物になり、調理は囲炉裏で行われカマドは無くなる[76][77][78][1]
中村和之は、アイヌ文化期のなかでも環日本海交易の担い手として強い独立性をもっていた時期をアイヌ史における中世としている[79]

Wikipedia -アイヌの歴史-

本州や大陸との交易が活発化して、いろいろ文化的にも混ざっていった時期がアイヌ文化期というのも面白いですね。

Wikipediaでは、この頃に本州の史料では、流刑地としての蝦夷が登場するとの事でした。
また、この頃にアイヌの反乱など発生していた等の記載もあるので、興味がある方は是非ご覧くださいませ。

ちなみに、中世アイヌ文化期は、本州では鎌倉時代や室町時代くらいですね。

近世アイヌ文化期

中世に環日本海交易を担ったアイヌは、やがて和人を含む周辺社会への従属度を深めていった。アイヌの交易上の独立性が失われたこの時期がアイヌ史における近世とされている[79]。その画期については、蠣崎季広が『夷狄之商舶往還之法度』を定めた天文20年(1551年)とされることが多い[79][130][注釈 20]

18世紀までに清朝とロシアがそれぞれアイヌへの支配を強化するいっぽうで、松前藩も蝦夷交易の管理者の立場から徐々に政治的・経済的な支配を強めていった[131]。18世紀末にロシアの南下に危機感を強めた江戸幕府は、松前藩を窓口とした蝦夷地取次体制を改めて蝦夷地の内国化を図るようになった[132]。幕末期では幕領下のアイヌを「化外の民であると同時に日本に従属した民」と位置づけ、日本の幕藩体制に組み込んだ[133]

今日アイヌ文化と呼ばれる伝統的・文化的要素はこの時期までに確立され、それと共にアイヌは自らのアイデンティティを明確にしていったと考えられる[134]。一方で発掘調査では、焼き畑や施肥を行い畝をもつ畑やウマの放牧も確認されており、狩猟採集というイメージに縛られた従来のアイヌ文化の見直しが提起されるようになっている[135]

Wikipedia -アイヌの歴史-

アイヌが周辺社会へ従属してしまった時期を近世アイヌ文化期というようで、この時期までに現在のアイヌ文化は確立されたようです。

周辺列強の動きにアイヌも巻き込まれてしまったという感じでしょうか。

この頃は、アイヌも殺伐としていたようでアイヌ同士での争いや、松前藩との衝突など、結構戦っている印象です。

この頃からでしょうかね、アイヌへの差別も出てきたような感じです。

商人による交易は商業漁業開発の様相を呈してくる。商人はアイヌの漁場経営に口を挟み、やがてアイヌを漁場労働者として行使するようになり、アイヌの自立社会は徐々に冒されていった[158][159][156]天明6年(1786年)に幕府の命で蝦夷地の実情を探った佐藤玄六郎は「商人がアイヌを漁撈に行使するために農業を禁止している。アイヌは正直で和人と変わる事は無い。商人は騙しやすいようにわざと和風化を妨げて異形のままにしている」などと報告している[160]

Wikipedia -アイヌの歴史-

わざと何も知らないアイヌの人をだまして搾取していたような内容もあります。それまでは幕府がうまく手綱を握っていたようですが、経済が複雑になり管理できなくなり商人が主導権を握った事で、このような事態が生まれたと記載されていました。

近代以降

日本が近代化の道を歩む中で北海道は日本の領土となり、先住民であるアイヌは自主的な要求がないままに日本国民に編入された。それと共に民族的な偏見に基づくアイヌへの同化政策が行われ、資本主義と近代化への変化を強要された。そのような社会はアイヌ文化の著しい衰退を招くとともに、アイヌに対する未開のイメージを増幅し、潜在化された差別を再生産することになった[197][198]

Wikipedia -アイヌの歴史-

アイヌの差別については、北海道で介護の仕事をしていると否応も無く触れる事になります。
本州の部落差別と同じような感じかなぁ、結構ひどいエピソードを聞いていますし、実際にアイヌの家系の高齢者の方から昔話を聞いたこともあります。

本州と北海道という形で海に隔たれた二つの地域ですが、こうして歴史をみてみると、それぞれの文化や人や密接に繋がってきていたはずなのに、どうしてこうなってしまったのか・・・。

違う思想、違う文化を認める、多様性を認めるというのは、本当に大事な事だなぁと思いましたし、アイヌの文化に古代日本信仰の影響があるというのを知って、更にアイヌ文化に興味が沸きました。

なんとなくアイヌの文化に共感できる原点がそこにありそうな気もしました。

アイヌ文化の歴史と現在を知っていますか?

最後に、アイヌ文化の歴史が簡単にまとめてあったホームページがあったので紹介します。是非ご覧くださいませ。

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