プロフィール(記事)を作ってみました。
※ 求人関連のマガジンを設定しましたので、せっかくなので会社の事やトップの事も併せて知ってもらえるとよいかな、と思って求人関連のマガジンにこちらの記事も掲載する事にしました。(2023.10.3追記)
自己紹介
プロフィールの記事を作るとバッジがもらえるみたいなので今年最後の記事は自己紹介の記事にしようかと思います。
生誕 1975年8月
出身 大阪府池田市
血液型 B型 (よくA型?と言われますが・・・)
小学校の頃はやんちゃだったみたいで、記憶はないのですがどうやら裸で校舎を走り回ったようで母親が呼び出しをくらったという話を聞かされた事がありますが、うーん・・・覚えがないんですよね。
小学校低学年の頃に地域のサッカークラブに入ってサッカーを少しかじり、その後5年生の頃から地域の野球分に入って野球を始めました。
また、小学校高学年で漫画の三国志(横山光輝)と出会い愛読しました。
ゲームやアニメも好きで周囲で流行っていた音楽とかには一切に興味が向きませんでした。
その後中学では、親が野球部に入れというのですが練習とかもうこりごりだったんですが、入部したらドラクエ3を買ってくれるという条件につられて入部し、地獄の3年間を過ごしました。
練習ではホームランとか打てるのに試合ではさっぱり打てない一発屋でした。
その後、両親が大学だけは卒業しておけ、という助言のもと、合格できそうな進学校(男子校)の3年を経て大学に無事に進学。
大学は京都の大学で、この時期に初めての独り暮らし。
そして、最初の2年で卒業単位を全て取得し、あとは卒業制作のみという状態にしてアルバイトに明け暮れる日々を過ごしました。
ちなみに、社保とか考えずに手取りだけで見たら今の手取りよりこの当時の手取りの方が多かったです。
初めて買ったのは400ccのバイクで、バイトで貯めた現金で購入したのはいい思い出です。
大学卒業と就職活動と介護福祉士(京都大阪)
その後、就職活動ではセガの本社面接などまで駒を進めていましたが、最初に内定を頂いた企業に決めて全ての面接をキャンセルしたのですが、山一証券が倒産した時期で、内定が決まっていた企業も倒産してしまいました。
たしか2月くらいだったので、そこから再就職活動をする気にもならず、そのままアルバイトで生計をたてようと思ったのですが、当時日雇いで解体業のアルバイトとかも行っていたのですが、そこの日雇い職人さん(結構高齢)に、ちゃんと就職しろと説教をされた事をきっかけに、何か資格を取ってみようと思い本屋で介護福祉士と社会福祉士という資格がある事を知りました。
当時、介護保険制度ができるのでこういう資格があれば仕事に困らないとか、介護職不足だから必要とされるとか、そういううたい文句で大々的に陳列されていたように思います。
そして、どうやら介護福祉士という国家資格は専門学校に行けば試験もなく取得できるらしい、という事を知り、介護福祉士の養成校に入学します。
昼間は専門学校、夜と休みはバイトを掛け持ちし、さらに奨学金(という名前の借金)をもらいながら専門学校に通って無事に卒業。
理想と現実(岡山・蒜山高原)
実習先で専門学校で教わった理想の介護と程遠い事を知り、当時先進的だったグループホームに関わりたくて進路を迷ってましたが、岡山の蒜山という所で土地と研修施設があって、そこを活用して好きにやってみないかと言われ、仲間2人と一緒に岡山の山奥に移住して自分たちの事業所を立ち上げようと行きました。
僕自身は、そこで農地を開墾して認知症ケアと農業をリンクしたくて、そういうグループホームづくりを目指して2年ほど、トウモロコシや大根や白菜とかピーマンとかいろいろと作って道の駅に出荷してましたが、どうも介護の仕事の始め方とかもわからず、このままではいかんと思って、やはり現場経験が必要だろうと考え介護事業所に就職する事となりました。
この時に無理にでも訪問介護なりやっておけばだいぶ違った人生だったろうな、と今更ながらに思いますが、当時の僕にはそういう発想に至る事ができませんでした。
ちなみに、この時期の月収はトータルで8万円ほどでした。
食べ物は野菜など近所の方がいっぱいくれるので不自由はしませんでしたが、やはり収入面での不安も大きくあったことは事実ですね。
介護現場リーダーの経験(大阪・北摂)
さて、岡山からまた大阪に戻った就職先が、小さな診療所法人のデイケアの主任だったんですが、経験もないのにいきなりリーダークラスという状況でした。
何故かというと、介護福祉士の有資格者が僕しかいなくて、パートさんは全員ヘルパー2級資格で、前任者が看護師資格だったからで、唯一の正職員の僕が必然的に管理運営する構図となりました。(管理者は医師ですが、常時いるわけではないので)
そこで更にびっくりしたのが、お給料が看護師と同じお給料だった事です。
この時期の手取りは人生で最高に多かったですね。びっくりしました。
なので、こんなにお給料もらえるなが頑張るしかない!と本当に頑張りました。
その後、小規模多機能型居宅介護事業所の立ち上げを経て主任から管理者となりましたが、それだけ好待遇だった事業所でしたが、あまりに過酷な労働環境だったので退職を決意し、憧れの北海道に移住しようと決意して上司に相談し、北海道にある系列会社に異動という形で移住する事ができました。
この大阪の事業所ではトータル8年勤務しました。
ちなみに、小規模多機能型居宅介護事業所は365日24時間のサービス提供ですので、常に仕事用の携帯電話を持っていて昼夜休み関係なく連絡がくる環境だったのですが、そこをやめる1年前くらいから毎月北海道に2泊3日くらいで旅行に行く事にしてから相当ストレスが軽減できた気がします。
飛行機に乗って海も超えて休んでいるので、電話が掛かってきても駆けつける事もできない、というのが携帯を持ってはいても心身共に休める環境だったのかな、と思います。
プレイングマネージャーとしての経験(北海道・室蘭登別→苫小牧→新ひだか→滝川)
その後、北海道では室蘭の事業所に着任し、デイサービスの管理者を拝命しました。
正職員が多い職場だったので、ようやく平社員からリスタートできると喜んでいたのですが、管理者配置だったので正直がっかりしました。
上司にもいくら経験あるといっても外から来た人間をいきなり管理者に据えてもチームのためにならない、と意見はしましたがダメでした。
このデイでの経験で、困難な課題はどこに行っても同じように降りかかってくることを学びました。
北海道で初めて住んだのが登別市でした。
その後、苫小牧に異動になり日高地方に異動になり、空知地方に異動になって遂に退職の決意をする事になります。
退職を意識してから開業まで(苫小牧→新ひだか→滝川)
2019年10月頃、独立起業について悩み始める。
2021年9月頃、大学の同期とWEBでいろいろ話をして企業について腹をくくるが、50歳頃の起業を目標として。
それまでの準備の一環として、noteで記事の投稿を始める。
また、会社の上司にも近い将来退職する事を伝え、遅くとも50歳で退職すると伝える。
その後の直近の出来事は以下の通りです。
2022年5月、空知地域へ異動となり完全に現場から離れた役割となる。
2022年8月、退職して起業する事を決意。登別市と事前相談。
2022年9月、退職届を提出。登別市の創業塾を受講。
2022年10月、創業塾講師の方に創業計画の点検。freee会社設立登録。
2022年11月、退職届が正式に受理。freeeにて電子定款作成。
2022年12月、法務局に登記申請(12日)し、法人設立。
2023年3月、10年以上務めた職場を退職。
2023年4月、登別市で訪問介護事業所 暖‐はる‐ 開業。
更新履歴
2022.12.31 投稿
2023.5.9 更新
2023.5.10 更新
2023.10.3 更新