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言葉くづし 6―中の橋

四時限の終了を告げるチャイムが鳴った。

長く感じた午前の授業が終わり、待ちに待った昼休みになった。勉強につかれた生徒たちは一斉に脱力の気配を見せはじめる。ペコペコになったお腹をさする体育会系の男子たちも落ち着きがない。しかしこの時間、日本史の沖田先生が握るチョークの音は、黒板の上で鳴り止まない。

先生は仏頂面のまま皺の深い指を三本まっすぐに立てた。私もふくめ、その意味を察した生徒たちがげんなりした表情を浮かべる。

あと三分って。

どうやって考えても、たった三分の延長で平将門と藤原純友の乱を説明しきれるとは思えない。ただでさえ沖田先生は日本史に関する熱弁を振るうタイプの人物なのだ。ずるずると授業を引きずって、結局は五分以上かかるに違いない。私たちにとっての貴重な昼休みが、このままでは削り取られてしまう。

オワレ……オワレ……オワレ……オワレ……。

生徒全員から無言の「オワレ」催眠術が放たれる。

マダダ……マダダ……マダダ……マダダ……。

対抗するように沖田先生からは無言の「マダダ」神通力。

両者の相反する視線が壮絶な火花を教室に散らす。まさに気と気のせめぎあい。沖田先生は教師歴三十年のベテランで、相当に手強い相手だ。そう簡単にチョークを手放そうとはしない。
しかし、こちらの戦力は総勢四十名。私たちの催眠術にだんだん根負けしてきたらしい先生の手先が震えてきて、最後には乱暴に「将門、獄門!」と書き殴ったところで授業が終わった。

あんだけ乱暴に書いたら、黒板に穴が開いちゃうよ、先生。

ちょっとだけ憐れみの念を感じていた矢先、穂乃香ほのかが後ろからガバッと両腕を回して首にかじりついてきた。

「私たちの勝利! 火曜の四時限は沖田先生との闘いだもんね〜。毎週イライラしちゃう」

さっそく穂乃香は自分で作ったお弁当を机に広げはじめる。十六歳でほぼ完璧に自炊できるなんて大したものだ。おにぎりを巻く海苔は韓国海苔が良いんだとか、卵焼きには砂糖を入れない主義なんだとか、食べ物に対するこだわりがけっこう強いグルメ女子。

明里あかり美咲みさきもランチに加わって、さっそくミニ女子会がスタートした。他のクラスメイトもそれぞれの仲間で集まってご飯を食べ始める。

「川崎くん、まーたボッチ飯してるよ」

美咲が川崎くんに気づかれないよう小さく指を差した。たしかに、二年生が始まって4ヶ月ちかく経ったけれど、いまだに川崎くんは誰とも関わりをもとうとしない。成績は優秀のようだからそこは心配はしてないが、ちょっと気になる存在ではあった。

「美咲、そーゆーの悪趣味。それともなに、個人的に川崎くんのことが気になってるとか?」

穂乃香がおもしろ半分に訊いている。美咲は可愛らしいピンクの箸をガチャンと置いて首を振る。

「バカ! 変なこと言わないでっ」

軽くののしって、ふざけ合って。いつもと同じ四人で同じような会話と食事が進んでいく。このメンツで過ごす時間はけっこう楽しい。家庭の嫌なことを忘れられるし、休みの日に都心部のカラオケやカフェに遊びにいくこともしばしばある。

それでも私は、ふと窓の外を眺めたくなった。

あれから二週間。夏炉からの連絡は、ぱったり途絶えていた。

窓の外では巨大な入道雲が遠くの山々を見下ろしている。樹々は緑に、風は青く。エネルギッシュな太陽の光は虫たちの魂を奮い立たせて、あちらこちらで生命の息吹を感じる季節。

初めて出会ったあの夜、激しい大雨に身を委ねていた夏炉の姿はまるで蜃気楼のように、この世界から消えてしまったように思えた。

「いやっほー! 明日は終業式! いよいよ俺たちの夏休みが始まるうっ!」

美咲が小躍りしながら大きな瞳を輝かせる。「俺たち」って……と彼女のおかしな言い方に失笑しつつ、夏休みを無邪気に喜べる彼女を心の底から羨ましく思った。美咲は八月末に開催される文化祭の実行委員なんてものにも立候補して、クラスのダンス発表のとりまとめ役を買って出ている。

「ふふっ、甘いですよ、美咲さん。さっそく来週からは本格的な夏季補習が、そして文化祭明け一発目には実力テストが待っています」

四角い眼鏡をずり上げる明里の言葉は、夏の太陽を凍えさせるほどの冷たさだ。

「やめ、やめんか! 私に現実を突きつけるなあっ!」

「美咲さん。たしかあなた、この前のテストはクラスの下から三番目の成績で……」

「ぬわあああっ、それ以上は言うな! ちっとはプライバシーに配慮せんか!」

ふたりのやりとりに、穂乃香と私は盛大に声を見上げて笑った。性格が対照的なふたりだけれど、絶妙に仲良しなんだから面白い。

はしゃぐみんなの様子を嬉しく感じながら、どうしてか私の心は内面に向かっていった。

私のテストの成績は、下から数えて七番目。
決して良くない順位だ。これが三年前だったら、どんな言葉で両親から罵倒されたか、想像することさえ恐ろしい。

両親からも、親戚からも期待されて。
お義母さんからも優しくされて。

私がテストで良い点数を取り続ければ「期待」や「優しさ」が手に入ったあの当時。
生みの母親がそばにいない分だけ、私には安心というものが必要だった。愛が必要だった。その場所に居てもいいんだという確信が欲しかった。

テストの点数は、それを手に入れるための対価。
自分の気持ちを、誰かに肯定されるための根拠。

そのためにはなんだってやった。

そうやって手にしようとして生き急いだ結果、すべてが蜃気楼のように立ち消えて。

大切な言葉が音を立てて崩れていく。
誰かの手によって崩されていく。
悪いほうへ悪いほうへ。辛いほうへ辛いほうへ。
感情が、希望が、明日が。
例えようもないほど空虚なものに変わっていく。

夏炉。
夏炉の存在だって、本当は空虚かもしれなくて。

「どうした、冬花?」

穂乃香の呼びかけに、私は思わず顔を隠して狼狽する。

「ごめん、つい考え事しちゃって」

「最近大丈夫? テストのときだって居眠りで梅田先生に怒られてたじゃん。つかれてる?」

穂乃香をはじめ三人は、本気で心配そうに私を見てくれる。それが堪らなく有り難く、そして堪らなく申し訳なく感じられた。

「テスト明けに遊びすぎてつかれたのかも。今日は放課後すぐに帰るから安心して」

「そう……。それなら良いけど」

授業開始の五分前を告げる予鈴が鳴った。みんなはテキパキとお弁当を片付けて自席に戻る。後ろに座っていた穂乃香が、シャーペンの軸で私の肩をトントンと叩いた。

「あのさ。夏休みが始まったら、赤門小路のジェラート食べに行かない? この前テレビで新作が出たって宣伝してたのよ!」

「まじ、絶対行こう! ありがとう」

穂乃香は自分のふっくらした頬にシャーペンを押し当ててクリクリと回した。これは彼女が照れ隠しをするときの癖だった。彼女なりに、私のことを気遣ってくれているのだろう。

穂乃香はウェーブのかかったセミロングの髪を鼻の下に二本もってきて、「ヒゲ〜」と一発芸をかましてくる。

こらえきれず私が吹き出していると、古文の新田先生が教室に入ってきた。

先生は古文単語のプリントを配りはじめる。
ふと廊下側を見て、突然驚いた表情で教室を飛び出した。クラスメイトも怪訝そうに教室の外を眺める。

「霧島さん、課題の提出は先週だと言ったでしょう。細川先生にもご報告しますからね」

神経質な新田先生の声。
相手生徒の、シューズをせわしなく廊下に擦りつける音だけが軽快に聞こえる。

「だって夏風邪を引いてたんですもん。仕方ないじゃないですか〜。これで出す物は出しましたよ、先生!」

叱られても反省の色を見せない独特の調子。
聞くひとを惹きつける不思議な声。
話しているとイライラするのに、なぜか心の内側を虹色に染めてしまうような、あの世界あたたかさの持ち主は。

「ちょっと待って!」

夏炉。

私は、椅子を蹴って廊下に飛び出した。
梅ノ橋で感じたときとは別の緊張が走る。

彼女と視線がぶつかる。

間違いない、夏炉だ。
私と同じ制服を着て、私と同じ校舎にいる。

そんなこと、一言も教えてくれなかったのに。

ずっとずっと、気にしていたのに。
ずっとずっと、会いたかったのに。

夏炉は飛び出した私の姿を見るなり、顔を真っ青にして気まずそうにうつむいた。すると彼女は、私が問いかける暇すら与えず、新田先生に手を振って走り去っていく。

「ちょっと待って、夏炉!」

後を追いかけようとしたけれど、授業開始のチャイムが鳴って、はやる気持ちに急ブレーキをかけられた。

どくん、どくん。
どくん、どくん。

胸の鼓動が、いつにも増して大きく波打つ。

どくん、どくん。
どくん、どくん。

席に戻った後、先生にバレないよう机とスカートの間でスマホをひらいて、夏炉にメッセージを送りつける。

文面は、相当ひどいものだ。

「放課後、絶対に校門で待ってろ。私に一言も説明しないで逃げたりしたら、あんたを八つ裂きにするからな」

メッセージを送信した後、私は「夏炉のバカ」と独りごちた。

(つづく)

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