街中で飲む、それぞれに生きているということ。
よく街中の隅で、ひっそりと飲む。コンビニで買った缶チューハイを、ちびちびと、また時には煽るように。
これといって話題があるわけでもない友人が、同じように隣にいる。
あの日の一杯、もとい一缶のうまさは値段には代えられない忘れられないものになった。
初めはただ安いからという理由で公園や街中で飲むようになった。コンビニや、スーパーでお気に入りのグッと酔える缶チューハイと立ちながらつまめるという観点で選んだお菓子を買う。
それは小さな2次会であることもあれば、それこそが1次会であることもあった。
べろべろに酔いたい時もあれば、ちょっと時間つぶしにという時もあった。
その時々でいろんな理由を手に、街中や公園を居場所にして飲んでいた。
しかしある時、韓国料理が食べたいねと訪れた新大久保で、いつものように食後の街飲みをしていると突然「今、街と飲んでいる」と感じた。
だいたい22時。駅から東にまっすぐいった道沿いでひっそりとチューハイを飲んでいる。新大久保という街には特別な想いがあるわけではない。何度か食事をしに訪れたことがあるのと、アイドルショップがあちこちにあって若い世代に人気の街、ということくらい。
22時という時間に駅から歩いてくる人。そうか、夜遅くまでこんなに明るくてにぎわっているけれど、住んでいる人もいるのか。
22時という時間に駅に向かって歩く人。ここが職場の人もいれば、これから出勤の可能性もあるな。
22時という時間に、駅の方から腕を組んでいちゃいちゃと歩いてくるカップル。もっと夜遅くまで営業してるお店もあるのかな。
22時という時間に新大久保という繁華街とは不釣り合いなほどに、だらしない格好をした男性。ゆっくりと駅の方へ歩いている。繁華街って若者が遊ぶだけじゃないな。
道をぼーっと眺めているだけのつもりだったのに、膨大な量の情報が一気に押し寄せてきた。それも目に見える価値を持たない、それぞれの、ただの人の情報が。
この日、この時間に、この場所にいる理由が多様で、想像するに易くなく(上述のわたしの想像は大して当たってないと思う)、見るからに特別なわけではないそれぞれの人が目の前に大勢いた。
そのことがわずかながらも死にたいと毎日思っていた私を、その日救った。
人が、それぞれの人が、生きている。
今日という日が特別じゃないかもしれない人が、明日こそは特別な日になったらなと思っているかもしれない、それぞれの人が。
飲み歩いてる人を後目に、出勤するのはさぞ辛いだろうな。あのカップルにとって今日の日は日常なのかな、それとも特別なのかな。新大久保にも、真面目そうなサラリーマンが住んでるんだ、住み心地いいのかな。それとも何か事情があって仕方なく住んでいるのかな。実は休みの日はとってもはじける人だったりして。
こんな愚にも付かない妄想はさておき、そうやって人が生きていることに感動したわたしはそれからも、さらにこれからも街中や公園で飲み続ける。
人が、それぞれ生きてるということに、毎日少しずつ救われながら。
もしわたしがお金持ちになって、外で飲むお金が惜しくなくなってもやめないだろうな。
そうなったら、缶チューハイをやめて上等な日本酒にでもしようかな。
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