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私も不登校児でした

子ども時代

私は内向的で感覚過敏な子どもでした。
大きな音が怖い、些細な物音や人が近くに来る気配などが気になる、靴の締め付けが気になって授業中に上靴を脱いでしまう、瘡蓋やさかむけが気になってはがしてしまう。
人にうまく気持ちを伝えられず、いつも自分より他人を優先し、ストレスをためやすく、爪噛みや皮膚むしりがあるという状態でした。
授業中に挙手して大勢の前で発表するなんて、恐怖以外のなにものでもありませんでした。
成績は人並みでしたが、いつも本を読んでいた(本の世界に逃避していた)ので国語だけは良かったように記憶しています。

大嫌いだった小中学校

正直、小学校、中学校は大嫌いでした。
無邪気に人を傷つける同級生に対して、自分の居場所の確保のために、へらへらと笑っている自分に嫌悪し、自宅で何度も涙を流していました。
「なぜ平気で人を傷つけることができるんだろう」「なぜ人の気持ちを考えられないんだろう」と他人のことで思い悩んだり、腹を立てたり。
今はもう大人になりましたし、心理学も学んでいるので、「そういう人もいる」と考えたり、距離をとったりするなど、対処ができるようになりましたが、小学校高学年頃からは特に毎日の登校がつらく、苦しかったことを覚えています。

不登校のきっかけ

中学二年の頃、誰のことも否定せず、誰の陰口にも同調しない、へらへらしていた私は、八方美人だとか、媚びていると言われ、いじめの標的になっていました。
無視、陰口、通りすがりに暴言を吐かれるなどが受けた被害です。
肉体的や金銭的な被害はありませんでしたが、感覚過敏なこともあり、本当にしんどかったです。消えてしまいたいと何度も考えていました。
当時、仲の良い友人もいましたし、勉強は面白かったはずですが、好きなことや楽しいことが全て吹き飛んでしまうくらいのインパクトが、いじめにはあります。
ある朝、母に「ごめん。もう学校いけないかもしれない」と話した日から、中学卒業まで1日も登校しませんでした。

不登校中の生活

私の母はとても理解のある人で「学校へ行きなさい」と言われたことは一度もありません。
フリースクールへ行ったり、家庭教師をつけてくれて学習面のフォローをしてくれたり、一緒に料理をしたり、本の感想を言い合ったりしました。
私を否定したことは一度もありませんでした。
私の話を聴き、私の感情や考えを引き出し、どうすれば上手くいくか一緒に考えてくれました(あれ、わたしよりカウンセラーっぽい・・・)
私もスクールカウンセラーをして、保護者や子どもの悩みに触れ、私自身も人の親なので思うのですが、なかなかできる対応ではないと思います。
今の私があるのは母の存在が本当に大きいです。

不登校後の進路

さて、登校しなくても中学は卒業できるのが義務教育のありがたいところです。私も中学校とは離れたまま卒業という形になりました。
もう集団生活は無理かもしれないと、高校進学も諦めかけていたのですが、通信制高校への進学という選択肢を選びました。
当時(25年くらい前)の通信制高校にも、社会人や、戦後教育を受けるのが難しかった世代の方、私のように全日制高校に進めなかった子ども、所謂不良と呼ばれる子たちが混在していて、お互いに深く干渉せず、自分の選択科目に出席し、レポートを提出するというシステムに当時の私は感動していました。
無理に友達をつくらなくてもいい(つくってもいい)、自分のやるべきことをしていればいいという世界は、なんと自由で素晴らしいことか!!!
不登校中に少しずつ元気を取り戻していた私はコンビニでアルバイトを始めて、労働が対価として支払われることに対しても感動していました。
仕事をすればお金をもらうことができる、人からも感謝される。
私は自分で生きていける。消えてしまわなくて本当によかった。と思いました。

大嫌いだった学校で働くこと

その後、紆余曲折あって(長いので割愛します)スクールカウンセラーとして学校という場所に戻ってきました。
やはり自分の経験から、学校になじめない、違和感がある、苦しんでいる子どもに向き合いたい、理解したいという気持ちを強く持っています。
辛い思いをする子どもや思い悩む家族を1人でも減らせるよう、私は学校に行きます。
今は学校が嫌いではありません。私の居場所のひとつになっています。

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