【掌編小説】氷解
(↑ のお話からどうぞ)
最近の子供は、不気味なほど大人びている。
遊泳禁止、バス釣り禁止、餌やり禁止、火気禁止、ポイ捨て禁止、ラジコン・ドローン禁止……。池や遊具、グラウンドや芝生、色褪せた公園を少し見回しただけでも、各エリアに二、三枚は禁止看板が佇んでいる。技術の進歩による避けようのない応酬だろうか、昔と比べると、あらゆる人間の行為に関して、かなり厳しい制限が設けられているような気がする。
そのうち、ボール遊びや虫取りなども禁止されるようになるのだろうか。なんだか、公園の存在意義が曖昧になってしまいそうな世の中である。そんな空間で駆け回る子供たちは、一昔前よりも不自然に均されているような印象を覚えた。
「……昔」
ふと声に出して、俺は、自分にも昔と表せてしまえるほどの過去があるのだという事実に驚嘆した。
昔。
なんとも奇妙な言葉である。この世に生を受けて十八年余りが経つが、自分が物心ついた頃の少年から成長した実感は微塵もない。今でもザリガニ釣りをしたいと思うし、鬼ごっこをして走り回りたいと思うし、ひたすらゲームに明け暮れる時間を過ごしたいと思う。だが、見えない監視の目がそれを是とせず、いつの間にか抗いようもなく成人になっていた俺の身体は社会の縄によって雁字搦めに縛られていた。
「みっちゃん、あっち、行こう?」
Yシャツの裾を真下に引っ張られて、悠久の思い出の底に沈みかけていた俺の意識は目の前の景色にぐんと引き上げられた。
俺は呆然と立ち尽くして、まだ、遠のいていくアオキユナの背中を見ていた。
「うん、行こっか」
心を許してもらってからはすっかり懐かれてしまったカナコちゃんのお団子頭にポンポンと触れて、俺は後ろ髪を引かれる思いでバスケットボールで遊ぶ子供たちの輪に戻った。
六、七年ぶりぐらいに再会した小学校時代の同級生であるアオキユナは、同い年のはずなのに、見違えるほど大人になっていた。
幼稚園が同じで、小学校へ登校する際の分団も同じだった。だから、同じ町内に住んでいるのであろうということは確かなのだが、実際にどこに住んでいるのかは知らない。俺たちは各々の家へと別れる前に、毎日毎日飽きもせず必ずこの公園に集まって、時間の許す限りを尽くして陽が沈むまで遊び通していたのだ。
具体的に何をして遊んでいたのかは、夏はザリガニ釣り、冬は鬼ごっこ、とまったく覚束ず、掘り返してもそれ以上の記憶は思い出せない。それに、時間の許す限り、と言えど、学校が終わってから親が帰ってくるまでの、せいぜい二、三時間程度である。
でも、幼かった俺たちにとっては、それが世界のすべてで、永遠だった。
「さっきのおねえさん、みっちゃんのお嫁さんじゃないんだよね?」
念を押すように、カナコちゃんが訊いてくる。今年の春に小学一年生になるのだという少女のつぶらな瞳には、俺たちは相当な大人に見えているに違いない。
「違うよ」
「ほんとのほんとう?」
「うん、ほんとのほんと」
人はいつ、恋を覚えるのだろう。これほど幼くして、男女の仲を妬いてしまう気持ちが芽生えている。その感情を嫉妬と呼ぶのだ、と教えたところで、カナコちゃんにはまだ解らないはずなのに。
あっという間に、俺を好いていたことなど忘れ去って、誰かと恋を結ぶ未来が少女の元へやって来るのだ。
言葉なんかでは到底制御することのできない、脆くて自由奔放な無垢の結晶を優しく撫でると、温かいものがふわりと胸を満たした。
アオキユナを意識したことのない男子なんて、同学年の中にはいなかったのではないだろうか。
そう思ってしまえるほどに、アオキはすべてにおいて完璧だった。
顔は可愛いし、勉強はできるし、スポーツも万能。加えてピアノを華麗に弾きこなし、かと思えば沼底の池に飛び込んで、俺たちと一緒になって泥だらけになったりもする。同じクラスにいても、他の小学生とは明らかに別次元の世界を生きていたのに、変にお高く留まって威張っているわけでもなく、男子からも女子からも分け隔てなく慕われていた。学級委員長や児童会に進んで立候補したわけではないのにもかかわらず、いつの間にやら周囲や先生に推されて任されていたような気がする。
非凡。才色兼備。高嶺の花。ちょっかいを出していた多くの男子は、程度の差こそあれど洩れなく全員、叶うことのない恋心を彼女に寄せていたに違いない。
かく言う俺は、果たしてどうだったのだろう。久しぶりの再会を果たしたのにもかかわらず、アオキを前にしても俺は一切ドキドキしなかった。きっとあの頃も少年なりに、「徒労に終わる報われない努力」というものがこの世にはあることを、どこかで俺は悟っていたのかもしれない。
好感は抱いていた。だが、それは恋愛感情というよりかは、むしろ憧れに近かったと思う。理解の範疇を越えた知的生命体がたまたま同じ空間にいて、それをぼんやりと眺めているような感覚。ドラマのヒロインやスポーツのスター選手をテレビ越しに見物している時のそれと同じで、ただただ凄いとしか思えなくて、これ以上彼女との距離を縮めて、ましてやお付き合いなんかできないだろうかなどとは考えもしなかったはずだ。
再び、アオキが去っていったグラウンドの入り口へ視線を流す。すると、すっかり顔馴染みになった人影がちょうど入ってきたところだった。
「カナちゃん、お迎え来たよ」
「あっ、パパだ!」
叫ぶと同時に、カナコちゃんは彼の膝元へと駆けていく。
「おぉ、みっちゃんもいるじゃん。あけましておめでとう」
カナコちゃんを抱き上げた彼女のお父さんは俺を認めると、如才なく微笑んでしなやかに一礼した。
「あけましておめでとうございます、モトヤくん」
トザワモトヤ。もっちゃんは、幼少期の俺やアオキなどに仲良くしてくれた近所に住む謎のお兄さんであり、カナコちゃんの父親でもある。
「今年受験生だったよね。共通テスト近いけど、どう?」
「いやぁ……、たぶん、厳しいっすね」
「随分弱気だなぁ」
「高校入試まではなんとかなったけど、とうとう誤魔化してきたツケが回ってきちゃいましたね」
素直な自己評価だった。
俺はどうしても、勉強を好きにはなれなかった。
国、数、理、社、英。校内の定期考査ではどれを取ってみても平均的。赤点まで下振れるほどではなかったにしろ、突出して何かに長けていたわけでもない。
日本語の読解能力すらかなり怪しいのではないか、と時々不安になることがある。教科書に記されている内容を完全に理解した気になっていても、なぜかテストでは回答欄に正解を書くことができないのだ。
文理選択で散々悩んだ挙句、理系に進んだ。理由は、就職に有利かもしれないと思ったから、というのは建前で、理系男子のほうがモテそうだったからというのが本音である。また、永遠に理解できる日が来ることはないだろうと早々に諦めていた古文・漢文や歴史を突き詰めなくても構わなかったので、消去法でまだ苦痛ではない理数科目に一縷の望みを託してみたのである。
英語に関しては、どちらに進んでも向き合わなければならない諸悪の根源だったので、最低である。日本語ですら何を言っているのか解らないのに、なぜ異国の言語の習得が強要されるのだろうか。英語だけ解るようになっても、知識がなければ使い物にならないのだから、いっそのこと英語で化学や物理を教えてくれればいいのに。なんて不満を抱きながらも、実際にそのような事態になったらさらに落ちこぼれになることが目に見えているので、最低限の“受験英語”にだけは渋々喰らいついているといった具合である。
第一志望は地方の国立大を受けるが、たぶん、落ちるだろう。第二志望の県立大はまだ望みがあるし、三教科で勝負できる私立大はより勝機があるので、すでに惰性で総復習に取り組んでいる節はある。昨日までの過去の積み重ねは、今日の俺に対して自信を与えてくれるどころか、むしろ悲観の念を煽り立ててくる。そんな高校生最後の日々を送っていた。
「解ける問題だけ解いて、あとは択一の女神に微笑まれるのを祈るしかないよね」
もっちゃんが言う。
「……まぁ、変に意気込んでもかえって焦るだけだし、気楽に挑みますよ」
正直に言えば、なぜ勉強嫌いの自分なんかが高等教育機関である大学へ進学するのかも分からない。みんなが進学するから、それ以外に理由らしい理由は思い浮かばないし、では就職して働き始めるのか、と問われれば自信満々に頷くことなどできやしない。結局のところすべて、先延ばしを正当化するための言い訳である。俺は何ひとつ、自分の意志でこれを成し遂げてやろうというような滾る野心や目標をもち合わせてはいないのだ。
「ま、どう頑張っても共通テストまであと二週間しかないのは変わらないから、気持ちだけでも前向きにね」
「ですね」
「じゃ、そろそろ僕らは行くよ。ほらカナ、みっちゃんにバイバイして」
「ばいばい、みっちゃん。おだいじに!」
耳に入ってきた小難しい会話を、解らないなりに大事な話だと解釈しているのだろう。まだ小学校すら始まっていないカナコちゃんに鼓舞されると、なんだか本当に自分が情けない男のように思えてくる。
「うん、ありがとうカナちゃん。またね」
俺は精一杯の微笑を顔に張り付けて、遠のいていくトザワ親子に力なく両手を振り返した。
共にバスケットボールをしていた他の少年少女たちにも別れを告げて、突き抜けた冬晴れの空の下、帰路につく。
ひゅうっと乾いた向かい風が吹き抜けて、薄い前髪が攫われる。受験勉強に集中していた期間がしばらくあり、久しぶりに身体を動かしたためか、自宅へ向かう身体は妙に重い。学生服の内側にはヒートテックを着ていたため、汗ばんだ背中がみるみる冷えて体温を奪っていくのが分かった。
「音大……かぁ」
アオキユナは、本格的にピアノを頑張っていると言っていた。音大への進学もすでに決まっているらしい。アオキの言う「頑張る」というのは、俺が想像でき得る「頑張る」なんかとはわけが違うのだろう。しかと将来像を現状の先に見据えて、一歩ずつ、確実に、着々と、なりたい自分がいる方向へ足を踏み出しているのだ。
クラスには、バレエダンサーになるために卒業後は渡米するのだ、という奴がいる。手に職つけるために、美容師や調理師の養成学校へ通う奴もいる。大学へ進学する奴らが大半だが、彼らだって、俺よりかは将来の目標を朧気ながらも定めているに違いない。
それに比べて俺の現状は、どうだ。
え? まだザリガニ釣りがしたい? 虫取りがしたいの鬼ごっこがしたいの、まるで成長していないではないか。
十八歳、成人男性。親父や代々の先祖の写真を見るに、恐らく、遺伝的に俺は禿げる。このまま年をとっても変わらず公園に赴いて、延々と子供たちと戯れている、おっさんになった自分を想像する。純粋に、無邪気で多感な子供に漲る爆発的なパワーに触れるのが好きなだけなのに、世間一般からは小児性愛者だ不審者だと当然の嫌疑をかけられて、弁明の余地もなく速攻で警察沙汰である。
怪奇千万、笑止千万。
無知蒙昧、朽木糞牆。
谷底まっしぐらの下り坂が脳裏に伸びて、全身が粟立つ。
問答無用、四面楚歌。
言語道断、自業自得。
次々と浮かび上がってくる五言絶句ならぬ四字熟語の絶句に、思わず俺は絶句した。
なりたい自分はないけれど、なりたくない自分ならいくらでも思い描ける。そうと分かれば、こんなことをしている場合ではないのは明白である。共通テストまで、あと二週間しかないのか、まだ二週間もあるのか、捉え方次第ではいくらでも巻き返せるチャンスはある。
将来の夢なんてない。でも、今はそれでいいじゃないか。どれだけ言い訳を連ねようが、大学受験をすることは決定事項なのだ。結果の先の人生をどうするかは、とりあえず、そこで待ち受ける自分を目の当たりにしてからにしようではないか。
と、道中ではあんなに意気込んでいたのにもかかわらず、リビングの炬燵の誘惑に負けて潜り込んでしまったが運の尽き、帰宅して早々にこの体たらくである。
「夜はおせちの余り物だからね」
そう言う母の手によって運ばれてきた盆の上には、山の如く蜜柑が盛られていた。そのひとつに、俺は早速手を伸ばして外皮を剥き始める。
「ん」
一月三日、我が家の晩飯は毎年必ず、年末年始と連日で続いた宴の消化試合となる。元日と二日を通して父方母方の両祖父母の実家へ順繰りに赴き、それぞれの親戚一同と新年の挨拶を交わしながらお節料理を堪能しつつ、食べ切れなかった分をもらってきて、三日目は我が家で残飯処理。この流れが、俺の家族の正月においては常だった。
普段めっきり見なくなったテレビでは、この日中に復路を終えて閉幕した箱根駅伝の総括をする正月特番が流れている。優勝した大学チームがすでにスタジオに呼ばれ、つい数時間前まで何十キロと疾走していたとは思えないほど晴れやかな表情を浮かべながらインタビューに答えていた。
トークの合間に、劇的な編集を加えられたリプレイ映像が挟まれる。
四年間の大学生活を賭けて走る血気盛んな若者の集大成を観るともなしに、俺はぼんやりと思案を巡らせた。この瞬間も他の受験生たちは己に捧げた合格祈願がため、一秒も無下にはできない限り有る時間を尽くして勉学に励んでいることだろう。そんなことを他人事のように考えると、申し訳程度にも、炬燵の上にぽつりと放置されていた英単語帳を開かずにはいられなかった。
『―――そうですね、結局、やるのもやらないのも全部自分なので、ひとつでも順位を上げて次にタスキを繋げてやるという思いで走り切りました』
区間記録を大幅に更新したらしいキャプテンの口から堂々と放たれた模範解答に、思わず泣きそうになる。
そんな漫画の主人公みたいな言葉を耳にしても、俺は、自分が変われるとは思えなかった。
ダイエットに成功した。地道なバンド活動が認められてメジャーデビュー。借金まみれの生活から一転して億万長者の一流経営者に……。そんな世界のどこかで起こったらしい数奇な夢物語に対して、羨望の眼差しを向けながらも、どこか冷めた心地を抱いてる自分がいる。
一体、何がそれほどまでに、人を変えるのだろうか。
偉人の成し遂げた功績に胸を打って、好きなロックバンドが唄い紡ぐ熱烈な歌詞を噛み締めて、今を時めくスターたちが大切にしているらしい哲学観を浴びるほど聞いて、それだけで満足して行動には移せず、手頃なアダルトビデオを見漁ってはすぐさま果て、襲い来る気怠さに即刻敗北しては眠り、次に起きた時にはすべて忘れて振り出しに戻っている。そんな情けない無気力な日々を送る自分自身が心の底から厭で、変わりたいのに変われないままの現状に更なる苛立ちが募るばかりである。
落ちた。
第一志望の国立大に関しては想定内だったが、第二志望の県立大はおろか、第三、第四と滑り止めで受けたはずの私立大すらも、すべて、すべて落ちた。
共通テストは例年よりも明らかに難化していた。難化していた、と言うよりかは、単純に余計な情報の分量が多すぎて、時間内に処理しきれなかったと言ったほうがいいかもしれない。回答に繋がる要点を抜き出す余裕もなく、長ったらしい膨大な文章題に目を通していたら手に負えなかった。
二次試験までの合間、失意の中で受けた私立大の入試も、まったく手に付かなかった。自己採点をして絶望し、予備校が出した予想平均点や二次試験のボーダーラインを確認して絶望し、それでも気持ちを切り替えて国公立の二次試験に臨んだが、前期も後期も駄目だった。
「ああ……」
ネット上には、共通テストに対する批判非難、罵詈雑言の嵐が轟々と吹き荒れていた。時を同じくして命運を握られていた大勢の受験生が怒り、大学教授や予備校講師が嘆き、依然として発展途上にある共通テストの在るべき形に関して、侃々諤々とした議論にもならない言葉の殴り合いが繰り広げられていた。
だが、そんなことはもうどうでもよかった。
落ちた。とにかく、俺は落ちたのだ。対策しようがない空前絶後のふるいにかけられて、為す術もなく篩い落とされた。学習塾ありきの、既存の高校教育だけでは到底カバーしきれないような思考力や判断力が問われ、奇しくもそれに巻き込まれた、ただそれだけだ。
どんな問われ方をしても、受かる奴は受かる。そう突っぱねられたなら、勉強不足、実力不足だったのだと結論付けて、諦めて泣き寝入りするほかない。
大学に進む理由だって、元々あってないようなものだったし。そんなふうに自己正当化して、無理やり自分を言い包めて納得させる行為は、笑ってしまうほど惨めだった。
『……その論理的思考力に関してなんですけど、日本人の大半は日本語が全然理解できてない、っていうのはありますよね―――』
適当に開いたYouTubeの対談動画で、とても頭が良いらしい“有識者”が歯を見せて愉快に笑っている。
俺はスマホの電源を落として、ベッドに投げつけた。
目先にぼんやりと浮かんでいないこともなかった将来像への足場がたちまち瓦解し、ガラガラと崩落していく音がはっきりと脳内に木霊した。その残響はしばらく消えることなく、桜が花開く頃になっても耳鳴りが俺を障っていた。
進学か浪人か就職かを問う進路調査表の『浪人』の欄に印をつけて母校に提出し、それからあっという間に一ヶ月が過ぎ去った。
浪人することを両親に伝え、予備校の受講料を出してもらっているのにもかかわらず、まともに授業に出席することもせず、次第に曜日感覚も薄れ、だらだらと時間を浪費する日々が続いた。
親は何も言ってこない。浪人に関しても、塾の学費に関しても、二つ返事で許可してくれた。毎月のお小遣いだって、一切の文句もなく渡してくれる。
俺が勉強しない高校生から、勉強しない浪人生になった、ということ以外、何ひとつ状況が変わっていない。それが余計に怖かった。
思い返せば、俺は、親から何かを禁止されたことがなかった。池に飛び込んで泥だらけになっても、捕まえてきた昆虫を飼育し始めても、ゲーム機をせがんでも、テストが赤点スレスレでも、俺は文句を言われたことがない。
寝て起きたら、二週間が経っていた。がらんどうな心持は変わることなく、全自動でカレンダーだけが更新されていく。
桜が散り出し、新緑の兆しが漂い始めても、依然として居間に鎮座する炬燵。その中から、俺は台所で洗い物をする母の背中を見た。
あんなに細く頼りない体躯だっただろうか、と、ふと思った。
ご機嫌なようで、知らない鼻歌を口遊んでいる。勉強に集中できないんだけど、なんて言ったら、すぐに静かにしてくれるのだろう。そんなことを考えると、途端に俺は泣きそうになった。
「ミツキ、今日は自習室行くの?」
不意に母が言った。
「いや……、行かない」
そう先走ってから、ああ、今日俺は予備校に行かないのか、と俺は思った。
「そう、じゃあ買い物付き合ってくれる?」
「ん」
炬燵を脱け出すと買い物かばんを渡され、俺は母に続いて外に出た。
車に乗っていくのかと思いきや、母はせかせかと歩き出した。
「歩くんだ」
「だって、そこの公園を抜けた先の商店街に行くだけもん」
からりと笑って、母が言う。
「ああ……、そうなんだ」
愕然とした。俺は、この人が普段どこで買い物をしているのかも知らなかったのだ。
晩春の、眠気を誘う昼下がり。
買い物を終えた帰り道、俺と母が再び公園に足を踏み入れた時だった。
「あーっ!」
凪いだ空に、耳をつんざくような少女の歓声が響き渡った。
「みっちゃんいたぁぁぁあああああ!」
その叫び声を、俺は随分と久々に聴いたような気がした。
声のほうから、ふわふわとシャボン玉が漂ってくる。
足が止まる。視線が流れた。
風を纏い、凄まじい速さで駆け寄ってくるカナコちゃんは、桜色のランドセルを背負っていた。
「葉桜だけど、花見でもしていこうか」
俺の全てを見透かしたように目を細めて、母が言った。
「ああ……、うん、そうだね」
道路の幅を広げるとか何とかで切り倒され、すっかりこざっぱりしてしまった、公園の外周を囲う桜の樹々。だが、かろうじて残された何本かが、過ぎ往く春をささやかに謳歌している。公園の中央、ピンクの絨毯がうっすらと敷かれた貯水池で、子供たちがザリガニ釣りをしていた。
「好きな景色を、ちゃんと見なさい」
「……はい」
複雑に絡まっていた緊張の糸が、するりするりと解けていくのを感じた。