【短編小説】When I Was A Fish

前世の記憶か、はたまた来世の話なのかは判然としないのだが、今よりもずっとずっと遠くを流れるいつの日か、ぼくは魚だったことがある。

きっと、何度かあるのだ。
ああ、今回は魚か、という思いは定期的にしている気がしている。続けざまに魚だったこともしばしばあっただろう。
他にも、かに、蛙、蛇。貝、虫、鳥。鼠だったことも、犬だったことも、猫だったことも。鯨だったことも、猿だったことだって、別に一度や二度ではないはずだ。

粒子や物質として存在するものなら、何だった時間が長いのだろうか。
比べてみると、光線の類か、あるいは石や金属などの塊として広い宇宙を漂流していたことが多いのは確かだ。地球上の生命に限れば、植物、中でも樹だった期間が圧倒的なのは言うまでもないし、無生物も含めれば水とか土だった日々が長らく続いたのも割と印象深い。
けれど、動物だった瞬間だって、断片的ではあるものの数えきれないぐらい憶えている。今この瞬間が偶然「ぼく」なだけで、一人称が「わたし」だった日も「あたし」だった日も「おれ」だった日も、そのどれでもなかった日、都合よく使い分けていた日だって、ぼくは当然持っている。
かたどられては崩れて、生まれたら死んでを延々と繰り返している以上、何も珍しいことではない。
ぼくはかつて魚だった。みんなとおなじで、それはふつうのことなのだ。

ある魚だったころのことを、ぼくは妙によく思い出す。

命を知覚してからしばらくはえらがあった。
いつものことながら、母の腹に抱かれていた記憶はさすがに残っていなかった。自分と一体化していた卵一粒が産み落とされた瞬間を振り返ってみても、靄を撫でるような心地がするだけだった。
でも、真っ暗闇の卵膜を突き破って、あまりにも広い外の世界へ飛び出てしまったときに、ああ、と思ったことは鮮明に憶えている。
ああ、しまった、やってしまった、と。とても怖くて、ひどく後悔した。
冷たくてびっくりするかと思って、魚のぼくは一瞬だけひるんだ。でも、水は体温とほぼ変わらなくて、それなりに快適だった。水の冷たさに驚いてパニックに陥ったのはどうやら、また別の生命だった日の記憶らしい。

とにもかくにもぼくは誕生したらしく、少ししてからそのことを知った。
卵の中で丸くなっていたときに、鰓の使い方はなんとなく心得ていた。眼の機能も「これで物を見るのか」ぐらいには理解していた。備わっていた器官の仕組みは何やら複雑に思えたが、使えればそれでよかった。

誕生を強いられたのは理不尽なことだった。
まぁでも、生きなければ死んでしまうので、ぼくは生存本能に掻き立てられて呼吸を急くほかなかった。
仕方のないことだったのだ、とたびたび思った。

暗く狭い空間をしばらく泳ぎ回っていると、塞がっていた重い天井が不意に押し退けられた。
まず変わったのは、においだった。水が掻き混ぜられて、空気が入れ替わったのだと判った。それから水温も少し下がって、涼しくなったような気がした。見上げると、天井に円い穴がぽっかりと開いていて、その向こうから微かに光が差し込んでいるのが見えた。
光を目指して、ぼくは暗がりに手を突いて、壁を這い上がった。
そして、穴から明るく広い場所へ出た。
あとになって、嗅ぎ慣れたにおいを放つ見た目そっくりの魚が穴を塞いでいたこと、それがぼくの母だったことを知った。

母はぼくを巣穴から出させると、そのままどこかへ行ってしまった。
その間際に、ぼくと彼女は一瞬だけ、妙なものを見るような眼差しを交わし合った。

ぼくは巻貝をよく食べた。
水を思い切り吸い込んで、エビやカニ、他の小魚なんかを捕まえたりもしたけれども、あいつらはすばしっこくて、たいてい狩りは失敗に終わった。結局、ぼくとおなじく水底を這っていて、かつぼくよりものろまな貝を拾い上げて噛み砕くのが一番楽だった。

世界には上と下があって、ぼくは下の上にいて、ぼくの上には熱く眩しい目玉と冷たく明るい目玉が交互に現れた。

生活していると、水位がひたひたと下がってくる時季が周期的に訪れた。
川の流れが遅くなり、水温が妙に高まり始めたのを見計らって、周りにいた仲間たちは一斉に沼地の底へ潜り込んでいった。ぼくもそれにならって泥を口で掻き分けて、見よう見まねで巣穴を掘った。

この身体で為せる業だけでやっていくしかなかった。
皮膚から粘液を出して、それを泥と絡めて、ぼくは全身をまゆで覆った。こんなことができるのよ、と母から教えてもらったわけではないが、必要な機能はすべて身体に備わっていた。

やがて水が干上がると、ぼくは繭の中で長い眠りに就いた。
その間は大地が乾き切って、鰓が使えなくなってしまう。だから代わりに、息をするには肺を使った。ぼくの仲間たちもたいていそうしているみたいだった。

再び雨が猛烈に降りしきって、砂漠と化していた辺り一帯が水没したと判ると、ぼくはむくりと起き上がる。
水を吸ってふやけた繭を裂いて、柔らかくなった泥を掻き分けて巣穴から這い出ると、水面のそこかしこに大量の物が浮いていた。エビやカニ、ぼく以外の大概の魚たちは、水を失えば為す術もなく干からびて、活動が停止してしまうようだった。
普段はありつけないおびただしい数のご馳走に、ぼくは仲間たちとこぞって狂ったように食らいついた。長い眠りから覚めたばかりで筋力も体力も落ちているときに食糧に困らないという状況になるのは、とても運の良いことだった。

辺りが水没すれば鰓呼吸で沼底を這い回り、再び干上がれば肺で呼吸しながら地中でじっと雨を待つ。
そのサイクルが習慣になると、だんだんと鰓で呼吸するのが苦しくなってきた。干上がっている周期のほうが長く、すなわち肺を使っている時間のほうが長いのだった。
ぼくは自然と、活発に動ける時季に戻っても、口先を水面から出して肺で空気を吸うようになった。そうして呼吸を肺に頼る日々を送っているうちに、あっという間に鰓の使い方を思い出せなくなってしまった。

その日も、ぼくは地中深くで繭を纏い、水が戻ってくるのを待っていた。
ほんの些細な違和感だったが、何かがおかしかった。待てども待てども、一向に水が巣穴に入ってこないのである。
腹が減っている。それが気になる。これほど空腹を感じるまで雨が降らないとは。ひとつ前の周期もこんな感じだっただろうか。ぼくは内心首を傾げながらも眠りに眠り、致し方なく堪え続けた。

苦痛を覚え始めてから、どれぐらいそうしていただろう。
ようやく水気が繭に浸透してきて、ぼくは覚醒し、ええいと力を振り絞って身をよじった。
筋肉がげっそりと削げ落ちていた。頑固な巣穴の壁を這い登るのも一苦労だった。とりあえず何かを腹に入れなければ、とぼくは巣穴の壁にへばりついていた虫を食べた。

雨粒がひらひらと眼に当たるものの、やっとの思いで巣穴を出た先はまだ干上がっていた。
それが違和感の正体だった。
ぼくは巣穴から顔だけ覗かせて、とりあえず辺りを見回してみた。いつもは季節を極端に二分していた雨がやけに落ち着き払って、風に吹かれてすらいるのであった。
空が鳴いて、その声がほろほろと轟いた。聞こえてきた方角に視線を流して、おや、と思った。
なだらかな斜面を少し下りたところは、一帯がちゃんと水没して沼地が出来上がっていたのである。
巣穴の周りにはそれはそれは多くの物が転がっていて、その中には仲間たちの姿もあった。皆が皆、水を失って干からびてしまったようだ。どうやら窪みに溜まる雨の量が減り、水位が下がって、ぼくが巣穴を掘った地点がすっかり陸地になってしまったらしい。

すっかり空気呼吸に慣れていたから、息に関しては問題なかった。
しかし、あらゆる内臓器官が悲鳴を上げていて、それが深刻だった。
このぼうっとした蒸し暑さと、時折雲間を断ち切って襲い掛かる鮮烈な日照りがいけなかった。肌の乾燥が大敵なのは本能的に理解していたし、干からびている仲間たちを見ても、一刻も早く水へ飛び込んだほうがいいのは明々白々だった。
ぼくは無様にもうねうねとのたうち回って、ごつごつとした灼熱の斜面を転がり下りた。
近い空を何か大きなものが這っていくのが見えた。
温い泥沼にぼちょりと身が浸かると、慣れ親しんだ水の触感を思い出して焦りも少し解れた。ぼくは居心地のいい場所を目指して尾鰭を振り、水底へ潜ってどんどん突き進んだ。生気を取り戻してからはいつもどおり、乾燥に耐えきれなかった肉付きの良い物を食べ、のろまな貝を食べ、たまには活き活きと表層を泳ぎ回る俊敏なやつらに狩りを挑んだりして過ごした。

意識が落ちかけたあの乾季以降、ぼくが棲んでいる湿地は同じような干ばつに幾度となく見舞われるようになった。
此度こたびこそは、と祈って眠りに就くほかなかった。掘った巣穴が次の雨季で再びちゃんと水没してくれる位置にあるか否か、それはもはや賭けに等しかった。目を覚まして、祈りも虚しく陸地と化した巣穴の外へ出るたびに、活動の止まった物が胸鰭の置き場もないほどごまんとひしめいている無残な光景を目の当たりにした。

鰓が発達しているたいていの魚たちは異常を察知して、肺に空気を溜めて身体を水中に浮かせ、鰭で上手いこと水を掻き、川の流れに乗って深いほうへ深いほうへと泳ぎ去っていった。
一方、ぼくは泳ぎが下手で、かつ鰓が退化しており、水に浮かべるほど身体が軽いわけじゃない。それに、砂利や岩場だと巣穴を掘れないし、粘液と泥を混ぜ合わせて、乾燥から身を守るための繭をつくれる身体機能を捨てる勇気もなかった。
仲間の一部泳ぎが得意な連中は、他の魚を追って川の流れに乗り、勇敢にもこの場所を離れることを選んだようだった。
でも、多くは残った。ぼくも浅瀬の沼地に留まり、同じ生活を続ける以外に選択肢はなかった。

泥沼に巣穴を掘る。
雨量が足りずに陸地と化し、多くが干からびて積み上がる。
ぼくだけが生き残り、水没した場所に転がり戻って安堵する。
仕方なく、この負のサイクルをしばらく繰り返した。

また雨季に入り、此度つくった巣穴は水没してくれて、幸か不幸かぼくはまた生き延びた。
それでも、浅瀬の水位はさらに下がっていた。
空気を吸おうと水面に浮上したあるとき、ギリギリ水没しなかったらしい水際にぽっかりと穿うがたれた巣穴から、同類の仲間が顔を覗かせているのを見つけた。
ぼくは周りにいた仲間たちを呼びつけて、そいつの元へ駆け寄った。
そいつはまだかろうじて息をしていたが、口から泡を吹いていて、呼吸のリズムが異常だった。鱗はボロボロと剥げ落ち、干上がった皮膚は割れ、垂れ滴る血は乾いて青黒く、瞳は白くどんよりと濁っていた。

鰓の機能が衰え、次第に肺呼吸へ移行し始めるころ、幼い仲間たちはしばしば溺れることがある。
自分の身を沈めていた水底が思っていたよりも深場に位置していると、水面まで泳いで上がることができずに窒息してしまうのだ。そんなとき、近くにいた大人たちが藻掻く幼子の身体を取り巻いて、抱き留め、水面へ押し上げてやることがある。
誰から教えられたものでもない、先祖より受け継がれ、生まれつき備わるぼくたちの種族の習性である。
あとほんの数センチ斜面を下れば水を得られるというのに、干上がった荒野で今にも干からびようとしている仲間を目の当たりにして、ぼくたちは一斉に泥沼を掻き分け、陸地へ這い上がった。

ぼくたちは止まりかけているそいつに覆い被さり、湿った身体をあてがい、風前の灯火だった生気をそっと、慎重に扇いだ。
そいつに呼び掛けると、聞こえているのかは判らないが、そいつは悶え喘いだ。
傷がみて痛むのかと思った。けれども、まず水の中へ運び出してやらねばと、ぼくは自分とそいつの胸鰭を絡ませて、精一杯、乾いた土の上でのたうち回った。
そいつはまた叫んだ。ぐぇ、ぐぇ、と鬼気迫るような低い濁声で、何かを訴えている。
それは怒りと抵抗だった。ぼくたち仲間が協力して水場へ連れて行ってやろうとしているのに、そいつは巣穴の出入口から動こうとしないのである。
しかしながら、弱っているそいつの抵抗が勝るはずもなく、ぼくたちは力任せにそいつを巣穴から押し出して、団子になって斜面を転がり、泥沼へ駆け込んだ。

水に浸かって九死に一生を得たそいつは、しばらくジタバタと暴れて傷を広げた。
そいつはどういうわけか、陸地と化したあの巣穴に戻りたがっているように見えた。しかし、やがて諦めたように鎮まり、次は飢えに蝕まれるがままにその辺に散らばる食糧を貪り始めた。
そいつには、ぼくのと合わせてつがいとなる生殖器がついていた。

雨季に入ってまぐわうとき以外、ぼくたちは基本的に単独で行動する。
鰭が当たるほどの至近距離で生活していても、平生はお互いを群れや家族の一員として認識することはない。
辺りには生き物が溢れ返っている。群れて連携せずとも何かしらは捕まえて腹を満たせるし、それに、各々で巣穴を掘って各々で過酷な乾季を凌いだほうが共倒れの心配がなくていい。
ぼくたちは細菌に脅かされることもなければ、大いなる天敵に捕食されることもない。浅瀬の沼地においては最強らしく、そのことになんとなく気がついてもいた。慈悲の欠片もない日照りさえかわせれば、ぼくたちに怖いものはなかったのだ。
ぼくは彼女の近くに身を置いて、彼女に刻まれた痛々しい傷口が自然と閉じて癒えていくのを見ていた。

再び訪れた乾季が過ぎ去り、ぼくは繭を破いて巣穴から出た。
彼女も水没地帯に巣穴を築けて、運良く生き延びたようだった。
ぼくは周りをうろついていた雄どもを蹴散らして、タイミングを見計らって彼女に近づいた。

手始めに、ぼくは水面に浮いていた枯葉をくわえて戻り、彼女の前で振り回して注意を惹いてみることにした。
気づかれもしない。何枚か葉っぱの種類を変えて振り回してみたものの、彼女は胸鰭で水底の泥を探り右往左往するだけで、こちらを振り向く素振りすら見せなかった。
あらゆる葉っぱを彼女の前で振り回してみた。同類の雄がこうして意中の雌の気を惹いている姿は何度も見てきたし、誰も彼もこれで成功しているように思えたのだが、何かやり方を間違えているのだろうか。
陽が昇って、彼女が眠りに就くと、ぼくはようやく飯を喰らった。そして、少しばかり離れた場所で休み、彼女が起きるのを待った。

次の夜も、その次の夜も、葉っぱをとっかえひっかえして振り回してみたけれど、無視に無視を重ねられ、どうも結果は振るわなかった。
でもそれでいて、あなたには興味ありません、という意思表示も返ってこない。そんなことを伝えるまでもなく、ぼくは雄として認められていないということなのだろうか。雌の気を惹くというのは初めての試みであったが、なんとも難しく、相手が何を考えているのか、自分は何をすればいいのやら皆目見当もつかなかった。
また少し離れたところに落ち着き、ぼくは彼女を気にかけつつ、普段どおり貝を拾い食いする生活を続けた。辺りには雨季ならではの、そこかしこで求愛をし、番が成立し、雌のつくった巣穴に出入りする雄の姿があった。
ああ、ああ、そうだよなぁ。やっぱいいよなぁ、性愛というのは。うむうむと頷きたくなるような、そんな心地だった。羨ましいなどとは思いもせず、感情はねたそねみとは無縁の場所にあった。ぼくは純粋な充足感をたたえた眼差しで、番たちによって淡々と交わされる行為を傍から眺めた。

ある日、周りに漂う繁殖ムードが最高潮に登ろうかというころ、一匹の雌が単独で近くに現れた。
あの傷を負った彼女ではなく、また別の雌である。
ぼくは水面に浮かぶ大判の青々とした葉を銜えて潜り、その雌の前で振り回した。その雨季にはすでに二度三度ほど、子種を賭けた雌の争奪戦を仕掛けてみて、屈強な雄たちに敗れていた。乾季が巡ってくるたびに着々と水場が失われていく最中さなかで、川縁の泥沼に棲息する生き物界隈全体に焦燥感が募り、誰も彼もが窮屈さを感じて余計に苛立っているようだった。
求愛の第一段階はあっけなく成功した。
その雌はぼくの踊りを舐め回すようにまじまじと見つめ、健康な雄であることを確かめると、自分の身体に触れることを許す旨を伝えてきた。
ぼくはその雌の身体を胸鰭で撫で上げ、それから頬を口先でつんつんと突いた。
これで合っているのかどうかは判らない。考えもしなかった。他の雄もそうしていたようだったから、その見よう見まねだった。
ぼくはただ焦っていた。
その雌は身体の線を満足そうにたゆませるでもなく、不快そうに強張らせるでもなく、あくまでも自然体な曲線をあでやかに揺らして「合格」の旨を伝えてきた。
うん、まあ、いいんじゃない? みたいな、そんな感じだった。

初めて番が成立すると、その雌は居心地の良い場所で身体をくねらせ、泥を押し沈めて巣穴をつくり始めた。
しばらくの間、ぼくはひたすらそこに食糧を運び込んだ。巣穴に出入りしながらねんごろに絡み合い、その雌の体調を気にかけ、存在を労った。やがてその雌が巣穴に籠るようになると、巣穴の出入口にでんと居座って、寄ってくる邪険な雄たちをなんとか追い払って縄張を主張した。
とうとうその雌が食糧を拒むようになって、呼吸のために浮上することすらしなくなった。
それが合図だった。
一晩明けて、性懲りもなくにじり寄ってくる雄どもを蹴散らして巣穴の奥底に戻ってみると、その雌は消耗し切ったように身体を丸め、大きな卵を三粒も抱きかかえていた。ぼくは一目散に駆け寄ってその身体に覆い被さり、パンパンに膨れ上がった生殖器を体外にさらけ出し、艶めく卵に目掛けて精子を暴力的に解き放った。

その一瞬の交尾を終えれば雄は用済みのようで、その雌は自分で狩りを再開し、息を吸いに浮上し、卵がかえるまで巣穴の出入り口に居座り続けるようになった。父親であるぼくですら近寄ると威嚇され、母性の牙を振りかざされ、ぼくは巣穴から完全に追い出されたようだった。
その雌が、自分の母親と重なった。あんなになまめかしく見えていた雌の身体は母そのものに映り、それはそれは恐ろしく、おぞましく、ぼくは半ば狼狽ろうばいしながら巣穴を離れた。
子孫の繁栄というのは、どうやらそういうものらしかった。

再び沼地は干上がり、また雨が減り、しかしながら水位はどんどん下がっていった。
刻々と奪われる棲息域を前に、干からびて動かなくなった物の山が累々と積み上がった。
運が良いのか悪いのか乾季を生き延びた者たちは、生き延びるたびに自身の住処すみかを確保すべく排他的になり、自身の子孫を残すべく攻撃的になり、ますますその凶暴さを増していった。

ぼくも例外ではなかった。
残忍なことで、抗いようもなく悪化の一途を辿る気候が、この場にいる生命を一匹も逃すことなく暴虐の渦へと巻き込んでいく。

ついに、水位がある地点の陸地を完全に下回り、川の流れが途絶えた。
生活環境を共にしていた多くの生物たちが腹をくくって去っていった川上のほうへも、河口より先のほうへも、もう泳いでは行けなくなってしまった。
川は陸地に囲われて湖となり、池となり、ぼくは最も厄介なよどみに閉じ込められてしまったようだ。行き場を失った者同士、汽水が溜まる窪みの中での生き残りを賭け、暴力は日に日に激化していく。

ぼくたちは、選択を迫られていた。

また乾季が過ぎて、雨季が訪れた。
それでも雨は細く、弱く、窪みに溜まる水が再び一方向へ流れ出す予感はもう微塵もなかった。
そのころになると、ぼくは背中が浸からないほど浅い泥沼を這い回るのが日常になっていた。雨で皮膚が濡れていればとりあえず乾燥の心配はないし、貴重な水場で飛び交う殺し合いを避けるという点では良い判断かもしれなかった。

空が鳴いて、その声がほろほろと轟いた。
聞こえてきた方角にふと視線を流して、あれは、と思った。

彼女だった。
間違いない。かつての破滅的な乾季の終わり、巣穴から出遅れて干からびかけていたところを、仲間たちと押し合いへし合い担ぎ上げて、なんとか水場へ連れ戻した、あの彼女だった。
彼女は浅い泥沼の地帯でも、ほぼ泥から固い土になりかけているようなほとり、完全な陸地との境界線のあたりをうろうろと這いずって進んでいた。雨が降っているから干からびる心配はないだろうが、危なっかしい動きだった。

たびたび猛威を振るう乾季を乗り越えて、同じく淀みに残ったのだと感極まり、ぼくは彼女の元へと急いだ。
はやる気持ちを必死に抑える。
ふっと呼吸を整えて、ぼくは初めてまぐわった妻へ示した求愛の段取りを冷静に思い出した。

ぼくは泥に刺さっていた葉っぱを銜えて拾い上げ、彼女の前で振り回してみた。
以前失敗しているからあまり期待はしていなかったが、よろよろと這い進んでいた彼女はふと立ち止まり、こちらをちらりと見遣った。ただ、何やら周辺の様子を窺うばかりで、身体に触れてもいいとは言ってくれない。
おお、これは、と思い、ぼくは様々な葉っぱや小枝を振り回しながら彼女の気を惹きつつ、かつての妻を射止めた大判の青々とした葉を探し出して、求愛にさらなる発破をかけた。
まず引き留めることに成功したのは、前回よりも一歩前進。本当のところは気を惹くことに成功しているのかは定かではないけれども、一応そういうことにしておく。

だが、いくら試せど、彼女の身体に触れることは一向に許されなかった。
ぼくが求愛を止めると彼女は動きだし、しかし求愛を始めてみるとまた立ち止まった。
彼女の反応は何か妙だった。かつての妻や、そこかしこで求愛を迫られている雌たちとは、決定的に何かが違っていた。

ぼくが葉を銜えて踊る。彼女は立ち止まる。
ぼくは疲れて少し休む。すると彼女はよろよろ歩みを再開してしまう。

その違和感の正体に気づいたのは、目についた枝葉や草花をひととおり振り回し終えたあとだった。

彼女の眼は、助け出したときと変わらず、青白く濁ったままだった。
ぼくはどうやら、まったく同じミスを以前もしでかしていたらしかった。
意図的に無視されていたわけでも、嫌われていたわけでもない。
彼女は、干上がった大地で今にも朽ち果てんとしていたあのときに、視力を失っていたのだった。

ぼくは試しに胸鰭で泥をべちょんと叩いてみた。
すると彼女は、もやのかかった眼で怯えたようにこちらを振り向いた。
すぐさまぼくは頭を地面に突っ伏して、泥中に隠れていた貝を拾い上げ、彼女の鼻の先に置いた。
ぼくが近づいたことで、彼女は付近をうろちょろする同種の気配を察知したようだった。そして、貝の存在にも気づいたみたいで、彼女はそれを嗅ぐように鼻を近づけると、摘まむようにそっと噛んで、静かに咀嚼した。

光を失った彼女は、においと音に感覚を委ねて状況を捉えていたのであった。

しばらく、ぼくは彼女の前に食糧を置き続けた。
そこに偶然食糧があるのではなく、誰かが眼の見えない自分のために運んできているのだということに、彼女は気づいていそうだった。

ぐぇ、と彼女が急に鳴いた。
鳴くという行動の意図を、ぼくは知らなかった。
ぐぇ、ぐぇ、と彼女は何度も鳴く。高く澄んだ声だった。
巣穴から助け出したあのときに聞いた彼女の叫びはもっと凄んでいて、声に鮮烈な憤怒と拒絶の色が兆していた。嫌がっているのがなんとなく伝わったそれと比べて、今の彼女の声は何を意味しているのかまるで解らなかった。
困惑していると、また彼女が鳴いた。ぐぇ、という声とともに、微かな空気の震えが霧雨を切って脳に届く。
意味も、応え方も解らない。ぼくは空気を吸って、肺を引き締めるように身体に力を込めてみたが、すうっと音のない溜息が出てくるだけだった。
彼女が再び歩きだす。
ぼくは慌てて泥をぺちんと叩いて、彼女を呼び止めた。

彼女が立ち止まり、ぐぇ、と鳴く。
ぼくはぺちんと泥を叩く。ぺちん、ぺちん、と続けざまに叩く。
すると彼女は黙り込んだ。

空が青白く瞬いて、ほろほろと鳴いた。
ぼくと彼女は音がしたその方角に振り向いた。
ぼくの胸鰭が彼女に触れた。

霧雨がふとなびいた次の瞬間、彼女は遠慮がちに泥を叩いた。
ぴちゃん、と音が響いた。
そして、彼女は身体の丸い線をふいと揺らして、「合格」と伝えてきた。

ぼくと彼女は番となった。

産卵のための巣穴を、彼女はすぐにはつくり始めなかった。
ぼくはひたすら付き添いながら、彼女が身を落ち着かせるまで待った。
かつては水没していたであろう地表を、ぼくと彼女は歩き続けた。

ぼくは彼女の少しあとに続いて川縁の斜面を這い上がり、草花を掻き分けて、いつの間にか完全な陸地へと迷い込んでいた。

眼の見えない彼女は、昼も夜も関係なく動いたり止まったり、また動いたりして、どんどん木立の奥へと突き進んでいく。
生い茂る葉の陰は幾分か涼しく、彼女は疲れると所構わず眠った。目の見えない彼女の行動は光ではなく、気温や音、においや衝撃などに左右されるようだった。
正直、早く巣穴を掘って卵を産んでくれないかと思ったりもした。しかし、それはそれとして、ぼくは彼女がここと決めるまではどうすることもできないため、番として認められたからには彼女の意向に付き従うほかなかった。

こんなにも故郷から離れてしまったのにも関わらず、彼女は着実に前進し、落ち着ける場所を目指しているみたいだった。
ぼくはすぐ疲れることが多くなり、ほんの些細な段差でも盛大につまずいて転ぶようになった。

その夜も、ぼくは彼女に導かれるがままに、代わり映えのしない茂みの中を縦横無尽に這い回っていた。
梢の先から雨粒が滴り落ち、冷涼な風が森を吹き抜けていた。彼女の足取りがいつもと違うことに、ぼくはうっすらと気づいていた。
彼女は白く濁った眼を見開き、地面を突き破ってうねる樹の根に胸鰭を掛けて、力強くその障壁を乗り越えていく。
その猛進はどんどんと勢いを増し、ついに彼女は密々と伸び散らかる茂みの奥へと消えていった。

ぼくが彼女を見失うと、彼女はぐぇぐぇと鳴いて居場所を知らせてくれた。
置き去りにされまいと、ぼくは体力を振り絞って彼女のあとを追った。
何度かそんなことがあった。ぼくは彼女を見失うたびに立ち止まり、視覚以外のすべての神経を研ぎ澄ませ、彼女をこえを探した。

懐かしいにおいが漂ってきた。
それは水の気配だった。

またしても彼女の聲を頼りに進んでいたあるとき、急に茂みが開けた。
突風が当たって、ぼくは眼をすがめた。
故郷と似たにおいがした。

不意に現れた広大な汽水、その浅い沼地の一角に、彼女は淡々と巣穴を掘り始めていた。
ぼくは水際で呆然と立ち尽くして、最初からこの場所を知っていたかのような彼女の横顔をただ見ていた。

前世の記憶か、はたまた来世の話なのかは判然としないのだが、今よりもずっとずっと、果てしなく遠い場所を流れる、いつの日かの話である。


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