【掌編小説】f-E-s-t-I-V-A-L

三途の川にも上流と下流があって、上流は山に、下流は海に繋がっているのだろうか。
真っ白のワンピースを着た少女を亡霊と見紛みまがいそうになるような猛暑日が一週間ほど続いた日の夜、ぼくはソファに寝転んで目を閉じて、ぼんやりとそんなことを考えていた。
古い書物に目を通せば、三途の川の起源も解るのだろうけど、生憎あいにく、ぼくは歴史書はおろか、学部専攻の教科書すらもろくに読まないうつけ者である。ただただ長ったらしいだけの小説なんて、もっと読まない。だから、簡単で言いやすい表面的な言葉だけを拾っては、その意図や真意どうこうなどお構いなしに、そこから空虚な妄想を繰り広げてしまう。
三途の川も川なのだから、上流や下流は当然あるはずだろうな。ぼくが「三途の川」という言葉に触れても、せいぜい抱く考えはこの程度。三途の川が何なのかもよく解っていないのに、非常に悪い癖だ。
勉強不足の自覚はあるが、その態度を改めるつもりも毛頭ない。日々が怠惰であればあるほど、一日にやることがなければないほど、これに越したことはないのだ。明確な行動に移していないだけで、SNSで頻繁に見かける頭の軽い残念な人たちと、ぼくはそう変わらないのかもしれない。
開け放った窓の外から、遠くの空で響く祭囃子まつりばやしが流れ込んでくる。ここら一帯の都市は寄せ集めの街だから、古くから受け継がれてきた歴史ある地元の祭りなどはない。きっと、どこかのスーパーが主催して、だだっ広い駐車場を自治体に解放して、そこで一夜限りの夏祭りを催しているのだろう。大学に進学して一人暮らしを始め、一緒に祭りに行くような友人も恋人もいないぼくは、当然、一人だけであの人混みの濁流へと繰り出す愚行などしないのである。
「ねぇ、お祭り、見に行ってみない?」
「いや、行かなくていいでしょ……、えっ!?」
ぼくは驚いて跳び起きた。
目の前には、川が横たわっていた。ぼくは、ソファに座っている。が、そこにあったのはぼくの部屋ではなく、外だった。
風が吹いている。どこかの森の中だろうか、そこだけが開けたような広い河原に、ソファと、リビングの半分が置いてあって、辺りは鬱蒼うっそうとした茂みに囲まれていた。
リビングの半分。そう、八畳のリビングのはずが、部屋はちょうどソファが置かれた中央のラインでトリミングされたように南側の四畳だけが残され、雑なコラージュみたいに、そこにあるはずの北側から先に河原が広がっているのだ。
裸足のまま、ソファから河原に踏み出すと、ごつごつした小石が刺さるように足裏に食い込んだ。幸い、南側についていたベランダは残っており、そこに放置されていたビーチサンダルを履いて、ぼくは再び河原に出た。
「えぇ……、つれないなぁ」
少女の声。
理解が追いつかないままに水際まで歩くと、対岸に声の主はいた。
真っ白のワンピースを着た――。
「……亡霊」
「失礼ねっ!」
猫の威嚇さながらの剣幕で牙、ではなく歯をく少女。
川幅はさほど広くなく、走り幅跳びで全国大会にこまを進められた陸上競技部の男子高校生であれば、助走をつけて一足で跳んで渡れそうだ。ちなみに、理系大学生で茶道部かつ幽霊部員のぼくに、そんな鍛え上げられた稀有けうな跳躍力はない。あるはずがない。あっていいわけがない。
つまり、ぼくはこの川を跳んで渡ることはできない。対するワンピースの少女は、今にもふわりと風に舞い上がって、ゆらゆらと空中を浮遊してこちらに渡って来られそうなほどに、涼しげで軽やかな風貌だった。
だが、その顔に見覚えはない。
「君、名前は?」
「まだないわ」
見ると、少女は裸足だった。
「まだ?」
「ええ、あなたは?」
「……アラタ」
「そう、じゃあアラタ、祭りに行くわよ」
当然の脈絡を辿っているかのように、まだ名前がないらしい少女は腰に手を当てて胸を張る。熟練のボディビルダーが腕のトレーニングを行う際に使うEZバーぐらいの重量しかなさそうな身体だが、ボディビルダーではない貧弱男のぼくは筋トレと青年期の少女の標準体重に関する知識がいちじるしく欠落しているため、そのそよ風にたなびくワンピースをただ眩しいと思うだけだった。
ぼくは流れる川の下流のほうを眺めた。賑やかな祭囃子が聞こえてくる、下流のほうを。
「祭りにはよく行くのか?」
「いいえ、一度も行ったことないわ」
「ぼくもだ」
どちらからともなく、ぼくと少女は下流に向かって歩き出した。

とりあえず受け入れることにした、というのが現状の判断だ。身なりが多少不潔なだけで、やましい考えなど持たぬ潔白なぼくは、理解できない事象はとりあえず棚に上げ、眼前に突き付けられた光景を事実としてまず認めるところから論理的考察のプロセスを辿るように常日頃から心がけている。
一人暮らしの部屋で少女の声を聞いて、跳び起きたら部屋の半分がなくなっていて、すると眼前に河原が広がっていて、流れる川の対岸に少女がいて、下流でやっていると思しき祭りに誘われる。
羅列された事象と事象を線で結んで俯瞰する限り、それらすべてに、理系のぼくが太刀打ちできる論理などはなく、可愛い少女から夏祭りの誘いを受けた自分という構図だけが結論としてそこには残り、ぼくにはそれを理性八割性欲二割の塩梅あんばいで快諾するという判断を下す以外に、他の選択肢は残されていなかった。なお、「塩梅」とは加減や具合といった状態を表すために用いた客観的視点に基づく程度分析であり、決して「梅毒」の隠語などではない。要するに、ぼくが彼女に対して、強引な性交渉をはかろうなどというようなよこしまくわだてを胸中にひた隠している可能性は万に一つもあり得ない、ということが言いたかったのである。

他愛もない会話を、初対面のくせに妙にれしい少女と交わしながら、ぼくたちはしばらく河原を歩いた。「他愛もない会話」と言っても、過去に接点などひとつも持たない年下の少女に一方的に祭りに連れ出される、という不可解な状況の被害者がぼく、という構図であるため、会話の内容はほとんど、ぼくが目の当たりにしている状況の整理を目的とする問答だった。断っておくが、「整理」であり、「生理」ではない。あくまでも、行っているのは現状を少しでも理解するための極めて理性的なコミュニケーションであり、今後の将来において、彼女の心身に危害をもたらすようなリスクをはらんだ発言をすることのないよう、ぼくは充分に注意を払って言葉を交わした。なお、ここで言う「孕んだ」というのも、彼女とぼくの間に子をもうけたい、などという究極の愛と性欲から思わず零れ出てしまった言葉ではなく、むしろそのような危険性が生じる隙もないほどに、ぼくは彼女との会話を運ぶにあたり、実に純粋無垢で清廉潔白な内容のみを取り扱うことに尽力した、という意図を前提に置いた上で用いた表現である。読者が何かいかがわしい勘違いをしたというのであれば、その責任の一切はぼくではなく、その読者にあることを強く主張しておきたい。

「これは夢か?」
とぼくが問うと、
「夢とは少し違うんじゃないかしら」
と少女は返してきた。彼女も彼女で、この現状を完全に理解できてはいないらしい。
「君はぼくを知っているのか?」
とぼくが問うと、
「よく知っているわ。でも、もうすぐ知らない者同士になる」
と彼女は返す。言われてみれば、なんとなく、ぼくも彼女を知っているような気がしてくる。
「どういうことだ?」
とぼくが問うと、
「あたしにも解らない。でも、そういうものらしいの」
と彼女は返す。
結局、状況の整理を目的とした他愛もない会話からは、これといって有益な情報を得ることはできなかった。

対岸越しに少女と話しながら水際を歩く。
純粋無垢で清廉潔白な話題から逸脱しないように話すことで、だんだんとぼくたちは純粋無垢で清廉潔白になっていく。川を下るにつれて、祭囃子の喧騒は次第に大きくなってきた。
そして、ぼくたちは海へ出た。
海はマン潮、すなわち、満潮だった。
「見て、あそこ!」
不意に少女が驚いた声をあげ、指を差した。
ぼくは少女に示されたあそこを見た。なお、ここで言う「あそこを見る」というのは……当然、指の差された海のほうである。
「なんだ……、あれ」
海の底が、やけに明るい。そこは夜とは思えないほどに、不自然な光で満ちていた。
「別々の場所を流れていた川も、その最後は海へ出て一つになる」
少女が静かに口を開いた。
「なんだよ、急に」
「いいえ、なんでもないわ。いっせーのーで、で飛び込みましょうか」
そう言って、少女は嬉々としてワンピースを脱いだ。
「あぁ、そうしよう」
ぼくも裸になる。
そして、ぼくたちは祭りで賑わう海底の世界に、息を合わせて飛び込んだ。

またどこかで会えたら、話の続きをしましょう。
少女を見失う直前、そんなことを彼女が言った、ような気がした。

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