#5 谷崎潤一郎『痴人の愛』を読んで
1.はじめに
福島旅行記は、現在続きを絶賛執筆中というところで、自分が読んだ本に対する感情を先に少しでも書き留めておきたく、今回は読書感想とさせてください.
自分が読んでいた三宅香帆の新書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の一節に、谷崎潤一郎の『痴人の愛』が登場する.
・引用されていた出だしに興味が湧いたこと、
・谷崎潤一郎の著作をこれまで読んだことがなかったこと、
・明治・大正あたりの古い日本の小説を久しく読んでいなかったこと、
これらを踏まえて読んでみようと思い、図書館から借りて読んだ.
なお、借りた本が相当年季が入ったもので、破れたりしてしまわないか心配だったのだが、年季ものの古本特有のあの匂いは、結構心地良かったりするから不思議だ.そんなことはさておき.
この記事では特にあらすじを書くわけではないが、以下、本作のネタバレを含むので、「読んだことがないよ」という方は、以下の文章を読む場合は自己責任でお願いいたしたい(結構棘のある感想文になっていると思うし、私としてはモヤモヤをつらつら書き殴りたいのだ).
2.登場人物に共感できるポイントは少なめ
令和の今になって本作を読む私と、当時この小説を読んでいた読者のバックグラウンドが全く異なるものであろうことは承知した上で、全体的に違和感が拭えない作品だったと感じている.
(1)河合譲治に対して
混血児(ハーフ)のような見た目の、ナオミという、13歳年下の世の中のことを何も知らない15歳の美少女を、手元に引き取って自分の妻として、外に出ても恥ずかしくないほどの教育や作法を身につけてやりたい、という物語冒頭の発想からわけわからなさすぎて面白い.
何がどう転んだら、アラサーの童貞がそんなことを考えるに至って13歳も年下の女の子にアプローチをかけるのか.この河合譲治はサラリーマンでそこそこお金を持っていて、一方のナオミはカフェで給仕をする女の子なのだ.動機は本作の中でそこそこ語られてはいるが、結論、なんか金にものを言わせてナオミを妻にもらった格好に見える.
時代を間違えれば(間違えなくても)普通にロリコンの時点で犯罪である.
次に、これも時代背景によるものな気はするものの、ナオミのこと(特に身体)を自分の所有物として書きすぎな感があり、男尊女卑的な思想が結構出ているんじゃないかと感じることがある。確かにナオミはこの後、譲治が予想する以上に魅力的な容姿・肢体の女性に成長していくのだが、それを明らかに自分の所有物のような形で恍惚と生々しく描写するのは、自分の妻に対してといえど、流石にやりすぎである.物語の佳境のあたりでさえ、譲治が32歳、ナオミが19歳なので、やっぱりギリギリ犯罪だ.
さらに、譲治はナオミの誘惑に弱すぎである.30にもなるのに自制が全く効いていない.どんだけ喧嘩をしても、不貞を重ねられても、極め付けは最終的に公然と不貞を働かれることが日常になったとしても、ナオミに惚れていて、かつそれで満足そうな様子で小説は終わるのだが、これでは譲治の尊厳・威厳はまるであったものではない.アラサーまでろくな恋愛をしてこなかった場合、男はこんなに拗らせてしまうものなのかと少し心配になるほとだ.
結局、何回裏切られて、その都度ちゃんと腹を立てて、あいつはダメだと理屈づけようとしたところで、男は結局、目の前の蠱惑的な誘惑には敵わないものなのだと皮肉的に描かれているのだとしたら、我々男はなんと頼りないのだろう.流石に、パートナーに何股も不倫されているけれど、惚れているからOK!で終わる男性はそれほど多くはないのではないだろうか.譲治には、そのような世の男性陣に対して謝ってほしいくらいの気持ちにもなる.もう少し下半身ではなく、頭を使って物事を考えるべきだろう.なお、本作に登場する譲治以外の男性陣(モブ以外)は、全員ナオミの浮気相手という結構エグい構成になっている.自分なら余裕で人間不信になっている自信がある.
(2)ナオミに対して
私は本作のあらすじを全く知らずに読み始めていたので(恥ずかしながら「ナオミズム」という言葉も本作を読み終えてからwikipediaで知った…)、初めの方は譲治とナオミのことを結構応援していた.
譲治の動機自体は気色悪いものであるにせよ、自分の妻となった人がどんどん垢抜けられるように、教養や語学を身につけられるように投資してあげたり、オシャレをさせてあげたり、結構涙ぐましい努力をしている.ナオミもナオミで、初めの方はしおらしくしていて、かつ「きっと譲治さんの期待するような素敵な妻になるわ」的な向上心に溢れている.応援したくなる、出来たてほやほやの新婚さんという感じ.現在の夫婦の形とは結構違うと思うけれど.
ところが、譲治から享受する贅沢が当たり前になってくると、徐々にナオミの気が尊大になってくる.自分は一銭も稼がないくせに、かといって何をするわけでもなくやれ服が欲しい、やれご飯を作るのが面倒だから外食させろ、掃除はしたくない、でも服は脱ぎっぱなしでどんどん部屋は汚くなる、そのくせダンスを習いたい(夫婦2人で習いにいくとめちゃ高い).「夫婦の形をとったパパ活か?」と思ってしまった(実際、本作でも、ナオミが譲治のことを「パパさん」と読んでいる描写が見受けられるので、パパ活の概念はこの時にはすでにあったんだなあと邪推してしまう).
おまけに悪い男友達ともつるむようになってしまい、いわゆるビッチになってしまう.しかも、譲治には平気な顔で嘘までついて不倫を繰り返す.まさに魔性の女である.これに最終的に屈服させられる譲治もどうなの、と思ってしまい、途中以降最後までは結構読むのがしんどくなってしまった.初めから最後までこの2人の間に愛を感じないのだ.お互いが打算で結婚したように感じてしまう.いや、初めは打算でいいのかも知れなかったけれど、最後までお互いのエゴしか見えない感覚がすごく違和感だった.
3.物語の構想的には納得の終わり、個人的には微妙
ナオミの魔性に抗えない譲治と、譲治のお金がないと虚栄心を満たせないナオミにとって、度重なるナオミの不貞を公認したとしても、あるいは毎日譲治に身体を差し出していれば、お互いの打算を満たすことができてハッピー、みたいな元さやで物語を終える構想自体は、「確かに2人にとってはハッピーエンドだよね」という気持ちにはなる.でも個人の感想としては、全然「あれ、終わった」という感覚だ.なんか、もっとハッピーエンドに持っていくか、ナオミが本当の意味で堕ちて終わるのかと思いきや、皮肉に掻き切られたまま本作は幕を閉じる.煮え切らない.
夫婦ってこういうもんじゃないよなあという気がしてしまう.終始、一方が一方に尽くすだけ、尽くされるだけ、なんて関係は全然あるべき夫婦の姿ではないではないか.お互いに持ちつ持たれつ、支え合いの関係でいられる状態がいい夫婦だと、本質的には考えているのだが、そのような描写が本作からは感じられない.
ひたすら堕落していってしまう1組の男女.夫婦という仮面を被ったロリコンと風俗嬢みたいな関係.そこに純粋な形としての愛はおそらく存在していない、そう思えてならなかった.この部分が本作を読んだ中での一番大きい違和感だったのかもしれないと今では思う.
この時代、譲治とナオミのような夫婦は珍しかったのではないだろうか.当時としては、読者は画期的な夫婦の形を提示された(しかもかなり皮肉な形で)のだろう.もっと言えば、当時の本作を読んだおじさんたちは、一回り年下の女の子を自分好みに育てて好き放題するラノベを期待していたら、逆に金銭的にも性的にも好き放題される側に回って、でも惚れてるからOKとほぼ完封負けみたいな衝撃があったのだろう.女性が読んだ時の視点がとても気になるところではある.
もちろん、譲治とナオミのような形の夫婦は、現代でも珍しくはないかもしれない.ただ、「打算で結婚しようとする人たち」という点については少し考えさせられてしまう気もする.そんな漠然とした不安を以て(そして赤裸々に書きすぎたかもしれないという不安も以て)、今回のところは筆を置こうと思う.