癖だらけでも愛せよ
自分の筆跡は癖だらけ。癖の塊だけで形成され、おそらく世間で謳う”美文字”とは正反対の地位を獲得していると、ここ最近になって気が付いた。
鉛筆の持ち方は小学校で、もしくは入学前に箸の持ち方と並行して練習した。という家庭も少なくはないだろう。私も箸に興味を持った時、並行してお遊び感覚でなんとなしに習ったような気もする。もしくは小学校に入ってからかも知れないが、気付けば”字を書く”という術を覚え、そのままズルズルと成長した。学生の時は、筆箱に入れていた数色のペンを駆使して、板書用のノートをセンスゼロの感覚なりに彩ることに心血を注いだものである。
そんな学校生活を謳歌し、社会人として世へ一歩踏み出した辺りから、少しずつ手書きとは縁遠い生活を送ることとなった。とは言えど、なんだかんだでデジタルよりアナログか勝る場面も多々ある職場環境のためか、縁遠くなったと言えども、ルームシェアを送る同居人からマンションの隣人程度の距離感を保ったまま、私のそばを離れないでいる。
かつて落書きをするために大活躍していたシャーペンや、彩るためだけに使われていたカラフルなペンたちの出番は薄れ、ひっそりと自宅や職場の引き出しにしまわれた。代わりに、ひっきりなしにかかる電話のメモを取るために単色のボールペンを握り、聞きとりミスの無いように、メモや資料へ殴り書きに近い、ギリギリ文字の体裁が保たれた言葉が私の手で書かれていく。我ながら、普段はリードに繋がれ静かに過ごす飼い犬が、リードを外され自由に駆け回っていいよ。とGoサインを出された犬のようだ。と思っている。
ここまでぶつくさ呟いたものの、結局自分の筆跡をそれなりに受け入れいてる私なのだが、先日、ちょっと困ったことが起きてしまった。
というのも、打合せで資料へいつも通り走り書いたメモの内容を一瞬理解が出来なかったのだ。上司へその資料をそのまま渡したとき、「これ、なんて書いてるの?」と聞かれ、出た言葉が「えー…なんでしょうねぇ…?」だった。
上司もそう言われると思ってないから、当然”え?”という反応を示した。私はその瞬間、過去にも未来にも類を見ないスピードで脳内を駆け回り、記憶からそのメモの意味を問いただしていった。古典的な漫画表現を使うのであれば、目がぐるぐる回り、頭からはねじがはじけ飛び、煙も少々上っていただろう。オーバーヒート、ショート寸前。そういう言葉がぴったりだ。
煙の上がる脳みそで解読できた言葉を伝え、まぁ自分の走り書きなんで気にせずに!とお互い笑いながら自席へ戻るときの、あの自身だけ感じる気まずさよ。喉の渇きを潤しながら、常日頃散らかっている脳内に拍車掛かって散らかった風景を操縦席から眺めながら、器用にため息をこぼした。
そんな出来事もあって、今回は珍しく(本当に珍しく)ノートに最初の部分を手書きで書き起こすことをしてみた。
自身の感情を書き連ねているだけなので、別段プロットと言うべきものも起こす必要があるか?と言われれば些か疑問なのだが、メモ以外での癖を久々に見てみたかったのもあった。(でも実際は骨組みも大切なので、これからは意識してみようと思う)
僅か見開き半ページ程書いたところで筆を止め眺めてみたが、まぁ癖のオンパレードである。相変わらずの癖の集合体。まるで、鏡合わせで自分を覗き見しているようだった。
世には人の数だけ筆跡があると仮定しよう。ともすれば筆跡とは、その人の人生を密かに写し出す指標にもなるのではないだろうか。そう考えれば、例え癖だらけになった筆跡も、少しばかりは愛おしく思えてならないと思う。