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映画『オットーという男』

 一言でいえば皮肉の詰まったコメディといったところだろう。笑えるかどうかは観る人の心持ち次第だ。

 歳を重ねると視野が狭くなるのはどの国でも同じなのだということが良く分かる。若いつもりでも確実に衰えは進行し、変化にもついて行けないからどこか取り残された人になっていく。人の中にある常識はそう簡単にはアップデートされない。それに固執し過ぎると世の中の常識との食い違いが起きる。それは紙やすりのように心の表面を微妙に削ってくる。つまりイライラが募る。そればかりか、周囲との摩擦も増える。

 それでも現実は、ノスタルジーに浸ることすら許してくれない。決意して生と決別しようとしても、ことごとく日常が妨害に入る。それはたとえ電気や電話を止めても防げない。無駄金を払いたくないという生活感は覚悟を決めた身でも料金が日割りにならないガスをすぐに止めてしまうことを躊躇させる。
 規律や計画を邪魔してくる他者は鬱陶しい限りだ。
 お前たちのバカさ加減に付き合っていられないと思うこともあるだろう。人の心に土足で入り込もうとする人々が抱く良心ほど面倒くさいものは無いと思うだろう。
 けれど人は、他の人々と関わりを持たずに生きることは出来ない。出来ないというよりも許されていないと言った方が正確だ。
 ともすると一人で生きていけると思い込みがちな世界だが、他者の存在を消して生きることは出来ない。

 想い出の中にのみ居続ける妻や両親は、あなたを形作る大切なピースであることは間違い無い。しかしそのピースたちはあなたの中にある。歩くのをやめて想い出と心中してしまっては、大切なはずのものがあなたとともに霧散してしまう。

 元となったのはスウェーデンの『幸せなひとりぼっち』(オーヴェという男)という映画だそうだ。こちらは見ていなかった。だから本家の出来は全く知らないが、このリメイク版は良い作品に仕上がっている。
 いつしかトム・ハンクス演じるオットーに自分を重ね、あれやこれや文句が多くなった日常を見直す切っ掛けになった。そして何より、今生きて近くにいる人々との関係の大切さを再認識する必要に迫られた。
 誰も分かってくれるはずがないと心を閉ざせば、見えているはずのものが見えなくなってしまうのだ。分かち合い、助け合い、励まし合っていくことこそが人生なのだ。
 ひとつ申し添えるとしたら、エンドロールが涙に霞んで良く見えなかったのは決して私のせいではないということだ。

おわり

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