文字が読めない人々
日本の識字率は世界平均の85%を上回る99%と言うから、殆ど全ての人が字の読み書きが出来るということになる。
世界各国での識字率測定方法は分からないが、日本では就学率をもって識字率としており読み書き能力に関する調査は行っていないというから、どこまで信頼して良いか分からない。
私自身を考えても、読むだけならまだしも書くとなると甚だ自信が持てない。識字率を読み書きの両方を兼ね備えた能力と定義するなら、私だって識字者にはなれないではないかと思う。就学者であっても読み書きがあやしい生徒は5万といるだろうから、実際の識字率は日本でも3割程度になりはしないか。
身近なところの話で何だが、字が書けるかではなく読めるかどうかに限ってみても、なかなかあやしい状況であることが最近改めて分かった。
例えば妻の場合、文字そのものを読むことは出来るものの、文書や文章になると俄然読めなくなるという。より正確に言えば、多くの文字を目の前にすると読む気がしなかったり、読んでも頭に入って来ないのだという。妻の場合は年のせいもあるだろうと思って同じことを会社で聞いてみると、私よりずっと若い世代も含めて何人も同じような症状の人がいることが分かって驚いた。文書がすんなり頭に入ってくることが無いのだという。目が文字を受け付けないらしい。大人になって久しく、仕事をして数年以上経っていても、そんな状況なのだ。
しかし考えてみれば、普段から本や新聞などの文章を読む習慣が無い人にとっては、文字が並んでいるのを見るだけで虫酸が走るというのも分からなく無い。慣れていないことを強制的にやらされることほど嫌なものはない。
しかも文章を読んで理解するためには、ただ字面を追い掛けるだけでは駄目で、そこに書かれた(慣れない人には)複雑で謎解きのような呪文の論理を追う必要があるのだから、たまったものではないだろう。
このことは、書かれた文章のみならず論理的な思考によって語られる喋りでも同じだ。つまり、論理立ったことを述べられても言おうとしていることを理解するのは難しいだろう。だから議論は成り立たない。
例えば、少数派の意見は無視されるのが民主主義だとある人が言ったときに、いやいや少数派の意見しか通らないのが民主主義の実態だよと反論するというようなことが起きる。言った本人は論理のすり替えをしていることに気が付けていない。ということは、人が話す言葉の論理がいつの間にかすり替わっていても気が付かないということで、互いに論理的でなはいただの言葉の応酬になる。
それぞれが、それぞれの立場でそれぞれの意見を言うだけでは議論にならない。論点がズレまくるからだ。しかしテレビで「議論」や「討論」と言っている番組は、皆が勝手気儘に思うまま言っているだけのものが多い。それでも皆が面白がって見ているのは、わーわー言い合っているのが面白いとか、手は出さなくとも大の大人が喧嘩しているのが面白いとか、いわゆるエンタメ番組と捉えているからだろう。
結局何の話だったか分からないままに終わるこの手の番組は、ワイドショーと同じく野次馬的スタンスで眺めていられるから面白いのだろう。
議論によって何らかの結論を見出す、つまり合意形成に至るには、言葉の理解とそれによる論理の理解が欠かせない。
だから、文字が読めなきゃ話にならない。
空気の読み合いに終始している限り生産性など上がるはずもない。
ここまで読んで下さった方にボヤいても仕方がないが。
おわり