型にはまる
みんな一律の基準で評価するという癖がどうも抜けない。
人はそれを公平な評価というが、個性とか多様性を重視するというのとは真逆だ。
人それぞれが自由に生きて良いはずなのに、大人になるに従ってどんどん型に嵌められて行く。あなたらしさはスポイルされ、基準に合わないと、それだけで低い評価が与えられる。しかも多くの場合、判断基準は恣意的で評価者の個人的な感情を伴ったものだ。
新しくやってきた人間が自分の感性と合わないというだけで、詰め込み過ぎないゆとり教育や、良いところを伸ばす教育が失敗だと言い出す始末だから既得権者は怖い。
型に嵌まった評価をされ続けると、型に嵌まることが良いことだと思い込み、挙げ句に人は自分が嵌まる型を探すようになる。探し出した型の中に嵌まり込んでおいてから、個性とか私らしさとかほざいている。しかし型に嵌まって落ち着くことは、土鍋で眠る猫の様に心地が良いから、皆簡単には抜け出せない。
人生の初期の段階で型に嵌るのを拒んだ人達は落ちこぼれとか不良とか言われ、その言い方が公然とは差別用語認定されていないのは恐ろしくもある。人を指差して不良だの出来損ないだの落伍者だの言うのは差別以外の何ものでもない。
もっとも、不良達自身も不良っぽいファッションや行動・言動をし、ヤンキーとか暴走族といったような型に嵌まりこんでいくのだから同じ穴の狢だ。
同じ穴なのは不登校や引きこもりにしてもそうだ。大差はない。本人達にしてみれば周りが勝手にそういうレッテルを貼ってくるだけだと言いたいだろうが、もし病気とかではなくそこまでの自覚があるのなら、それは型のひとつだ。
あの人とあなたの評価基準は本来は同じはずがない。ひとりの人間として評価するのならば、だ。
ある特定の技術力(最近ではスキルという無味乾燥な言い方が好まれるようだが)を評価するのならば、評価基準は同じになる。しかしこれにしても、その人が標準的な技術力を持っているかどうかは測れても、それ以外は測れない。標準外はただの標準外でしかなく、凄い!とか無知だ!とか言われるだけだ。
つまりテストは、集団の標準値がどこにあるかを測るためのものであって、あなたの能力の絶対値を把握するためのものではない。だってテストが終わると平均点とか偏差値とか言うでしょ。そんな値はこれもひとつの型ですよ。
ひとりの人間がどうであるかを評価するなんてことは、実は組織にとってはどうでも良い。
組織はあなた個人やあなたの趣味的なスペックなど本当はどうでも良い。
組織は人だ、というのは全くその通りだが、そのことと人間としてのあなたを評価することを取り違えてはならない。あの人は良い人なんだけどね~、というのを聞いたことがあるでしょ。
何なら、人が人を評価することなんてホントは出来ない。
学校は「社会」に適合する人間を養成するところ。大量生産された型人形は会社というフィールドに並べられて、適材適所と言いながらパズルゲームのようにぐるぐると動かされる。
みんなそれを、目が回っちゃうよと言いながら喜んでいる。だって何も考えずに型の中に居さえすればそれで良いのだから。
とか言って、焦って型から抜け出そうとするのは得策ではない。
なぜなら、俺は型に嵌まらない行き方をするんだ、という型にはまるのがオチだから。
おわり