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映画『チャタレイ夫人の恋人』NETFLIX

 本当の恋愛が何なのかを語るのは案外難しい。
 愛し合っていたはずの人同士が憎み合ったり罵り合ったりすることは間々あることだし、永遠の愛を誓ったはずなのに離婚する羽目になることも良くある。ではそれらの愛は本物で無かったのかというと、当人の感覚ではそうでもない。あの時は本当だったというのが本音ではないだろうか。
 時が移ろうのと同じ位、人の心も恋愛感情も変化して行くものだ。もちろんそんなことは信じたくないだろうが、今この時の感情は、ここにしか無いものだ。

 この映画の舞台となるのは、今よりずっと家柄(というか身分)が重視される頃のイギリス。
 領主と使用人との関係は、人間と動物の関係よりも隔たりがあり、同じ身分の人同士でしか結婚は出来ないし、結婚=恋愛という意識は薄かった。特に妻である女は夫である男に無条件で従うものというのが「常識」だから、妻の尊厳などどこにも無いし、妻の意見など聞くに値しないものだった。
 それでも多くの高貴な人々は世界を動かしているのは自分たちだという自負を持ち、実際にそれで社会が回ってもいた。

 そういった社会的背景で育ったから、夫人も自分が夫人であることに最初から疑いを持っていた訳では無い。戦争から帰った夫の身体が不自由になったとしてもそれは変わらなかった。
 しかし、夫からこう告げられた時、夫との関係性に疑念をいだき始める。
「子供を作ることが出来ない身体になってしまったから、どこか他の男との間に身籠ってくれ」

 その男が誰であるかは伝えなくて良いから、その子を後継ぎとして育てようと。
 要するに女は後継ぎ製造マシーンに過ぎないと言い渡されたのだ。
 寝取られ趣味とは全く逆の、妻を子孫を残すための道具としてしか見做さない考え方は、上流階級の男の間では一般的だったのかも知れない。しかしその一言が彼にとっての思わぬ結果の始まりとなってしまう。

 発刊当時に問題となり事件にまでなったような猥褻物語は、心の揺らぎと恋心、セックスと愛情、そして結婚と家族といった状況の変化と人の心の移り変わりをなぞっており、恋愛結婚で家族を持ったことのある人が誰しも経験するような心のプロセスを再現してもいる。自分にもそんな時があったなと懐かしむような、ちょっとくすぐったい気持ちにさせられる。エロいのはセックスのシーンがあるからでも、裸体が晒されるからでもない。エロい時の自分の気持ちの動きを見せつけられるからだ。
 しかし時代背景を考えると、当時の自由恋愛は今よりももっと濃密だっただろうことは容易に想像出来る。背徳的で情熱的なそれは羨ましくもある。

 恋なんて理屈ではない。思い通りに行くものでもない。恋をきっかけに育まれる愛が肉体関係と切り離せないことも事実だ。プラトニックな関係の有無を論じたいのではなく、愛と肉体関係が切り離せないのはオキシトシンというホルモンが関係するからだ。脳内のオキシトシンの量は性行為によって変化する。その結果が愛情に関連していないと言うことの方が難しいのではないか。
 もっとも、性愛によって真実の愛が曇ってしまっている可能性も否定は出来ない。そうでなければ本当の愛が尽きることはないだろうからだ。

おわり

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