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民主政と多数決とマイノリティーと

 若者はマイノリティー。
 そう言う人がいた。
 
 数が多い人の意見だけが通るのが民主主義だと取り違えては見誤る。実際そうじゃないか、と言うけれど、それは議論よりも数の論理を優先しているからだ。
 どんなに真摯に議論をしても、最終的に多数決で決まるとなれば多数派に付くほうが自分の思いが実現する確率は高くなる。だから多数派組織に属した方が良いということになるし、逆に弱小組織では実現可能性は極めて低くなる。
 とはいえ同じ政党内でも意見が全く同じということは無い。だから大きな政党ほど党内での勢力争いが起きるし、個別には個人的な思いに封印しなければならないことも多くなるだろう。
 理想論で言えば、各議員が党派を超えて各論で己の思うところに投票することが出来れば良いのだが、そんなことをすれば意見は纏まらず決を採るに足る票が集まらない。結論を出すためには、どっちみち妥協が必要なのだ。

 こうして結局政治は数の勝負になるわけだが、多数派に結論が偏るのは今の民主政治が抱えている大きくて、しかも修正しがたい欠点だ。
 声の大きな人の意見が通るうちは、社会的弱者は日の目を見ない。開いた格差は縮まらないということだ。

 社会的弱者、マイノリティーは誰か。
 例えば身体障害者がそうだと言うのは誰が見てもそうだろう。でもそれだけではないと乙武洋匡氏は言う。
 今の世の中では、若者もマイノリティーだと。
 もともと選挙権が無く保護者の庇護のもとにいる若者は大人として扱われていないからマイノリティー以下だろう。
 成人した若者にとっても、期待するような政策が実現されることはまず無い。なぜなら多数決で負けるからだ。党内での力関係から、法案を出すことすらかなわないだろう。
 それは今に始まった事ではないと思いがちだが、かつての日本は年寄よりも若者が圧倒的に多く、政治家のおじさんたちも聞く耳を持たざるを得なかった時代があったのだ。

 これを打開するには、何でも多数で決まるという思い込みから抜け出さねばならない。
 確かに決を採る時点では多数派に傾く。でも逆に言えば、今は少数派でも、決を採る時点で同意する人を増やしていれば良い。
 党や派閥を超えて同意する人を増やしていれば良い。でないとマイノリティーはいつまでもマイノリティーだ。

 マイノリティーには様々ある。
 乙武氏が言うように、若者をも含めた世の中のマイノリティーを横に束ねて見れば、かなりの数になる。普段はバラバラの場所でマイノリティーを感じているそれらの人々が、マイノリティーであるという共通点で繫がれば出来ることもありそうだ。
 りきんでそれぞれ個別の思いを語り出すと全体としての存在感がぼやけてしまうので、力まずに行きたい。マイノリティーという人々にこれだけのボリュームがあるんだぞというのを示せればそれで良い。

おわり
 

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