過去の闘病生活を振り返る。〜②周りからの評価が全てだった自分が不登校になって〜
この記事の続きです。
周りからの評価だけが全てだったあの頃、全てをなくした気がした。
中学2年生の春、わたしは不登校児となった。
当時は頑張ってきた勉強やピアノで残してきた結果、成績、周りからの評価が全て、自分の存在意義諸共、水の泡になって消えていってしまった気がしていた。
思えばわたしは幼い頃から周りからの評価でしか自分を認められていなかった。自分で自分を褒めるということができていなかった。元々自己肯定感が低かったんだと思う。
周りからの評価だけが全てだった。周りから評価されることで自分の存在意義を見出していたんじゃないかな。
なかなか勉強に身が入らなかった後期も、成績は前期から落とすまいと頑張り、40/45をキープしていた。
成績を落とすまいと思ったのは、周りからの評価を気にしていたのもあったけれど、
『成績を落としたらこの苦しみがバレてしまうかもしれない』
『そうしたら、周りに心配をかけてしまう』
と思って頑張っていた、頑張れていた部分もあった。
小学5年生頃とある事件の被害にあって腫れ物扱いをされたことがあったからか、異常に周りに心配されることが嫌だった。というところもあったと思う。
わたしは昔から人一倍負けず嫌いだった。
今思えば塾にも行かず、あの状態でその成績を残せていたのは本当に頑張っていたんだと思う。
だけど、もっと頑張れるはず。と、満足することはなかった。
怖くて救いの手を拒んでしまったこと。
ピアノに関しては、県のコンクールに向けて練習をしていたけど、情緒が不安定なのはピアノの先生に伝わってしまっていた。
「弾き方が乱暴になってる。音が攻撃的になってるよ。何かあった?」
「もし何か抱えてるなら、誰にも言わないから話聞くよ?」
と、先生は頻繁に声をかけてくれていた。
でも、その当時は“人に頼る”ということが怖かったし、ダメなことだと思っていたし、自分の身に何が起きてるかも認識できていなかったから、
「なんにもないよ?」「大丈夫だよ」「練習足りてないのかなぁ」「もっと頑張るね」
とか、そんな言葉しか返せなかった。
幼稚園の頃からわたしのピアノを聴いてきて指導してくれていた先生だったから、隠せるはずがなかったのに。
あの時助けを求めることができていたら。
そんなことを考えて後悔したこともあったけど、所詮たらればでしかない。後悔してもしょうがない。と、今は割り切れている。
結局コンクールに出場することはできなかった。コンクールは中学2年生になる前の春休み。わたしはもうピアノを前のように楽しんで弾けなくなっていて、先生にストップをかけられてしまったから。
先生には怒りを覚えていた。頑張ってたのになんで出場させてくれないの?と。なんで、なんで、って。
だけど、先生の優しさだったんだなっていうのは、今は分かるし、あの時ストップをかけてくれたことには本当に感謝している。
振り返って考えた時に、頑張ることが、結果が、評価が全てじゃない。と思うことが出来るようになったきっかけの1つになってくれたから。
不登校という経験が教えてくれたこと、変わり始めた今の自分。
学校に行かない選択をして、ピアノ教室にも通えなくなって。
自分からなにもかも無くなってしまった、と思うようになった。初めての感覚で怖かった、悔しかった、情けなかった。
学校に行かないという選択は、心が楽になった部分も勿論あったけれど、同時に感じたことがなかった類の苦しみも、わたしにもたらした。
当時は何もかもが自分からなくなって、周りからは再び腫れ物扱いをされるようになって、生きる意味、自分の存在価値が無くなった気がしていた。自分の存在意義が分からなくなって、苦しかった。
だけど今は、あの時期があって良かったと思っている。
あの時期があったから、今はある程度自分のことを認められるようになれたと思っているから。
あのままで生きていたら、自分に自信が持てないまま、自分を自分で認めることが出来ないままずっと生きていたと思う。そして、周りからの評価ばかり気にして、それ越しでしか自分を見ることができないまま生きて、結局、何かのきっかけで精神を病んでしまっていたと思うから。
だけど、心からこう思えるようになったのは割と最近の話。
自分のことを自分で認めることなんてずっとできなかった。
こう思えるようになったきっかけは、またそのうち。
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