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「やりがい搾取」は良いか

良いかどうかは分からないが、搾取されても良い。

最近「やりがい搾取」なんて言葉をよく聞く。言いたいことは分かる。
「やりがい」を演出しまくって金銭的対価を払わないことを言うのだろう。

ただ、いままで、「仕事は金じゃねえ」とか、「やりがいがないといけない」とかさんざん肯定的に言ってきた僕達が急に「やりがい搾取」なんて穿った見方をしだしたのだ。どんな風の吹き回しだろうか。

簡単に思いつくのは「お金がない」だろう。ここ30年間日本は確かに停滞していたので説得力がある。「やりがいじゃ食えねえ、金よこせ」と言った具合だろう。

また、「仕事以外にやりがいを見つけたから」もある。ライフワークバランスという言葉で、仕事とプライベートを分かつ線をきっちり引いたことで、「仕事」が昔以上に「プライベートとは違う」ことが演出された。責任や効率など、"仕事っぽい"特性が際立ち、なんだか緊張感のあるしんどいことに変わってしまったきらいがある。

さらには、「格差」が拍車をかけているだろう。なので「やりがい搾取」って揶揄してみたくなっているといったところか。

だが、別にやりがい搾取されてもいいだろう。対価を払っていることに変わりはない。以下のように、仕事の対価は「やりがい払い」と「お金払い」の二つで構成されていると捉えることができる。

やりがい搾取とは、単にこれが、以下のように「やりがい払い」が多いだけと言える。

「いやいや、やりがい搾取というのは、やりがいは演出されてはいるけど本当にやりがいがあるかといったらないということだよ!」

いや、それはない。やりがいをあるように見せることはできない。

「これをやれ!やりがいを感じろ!」と言われても、「わかりました!やりがい感じてやります!」とはならない。"やりがい"とは、自発的に発生するものでしかないため、誰がどう「"やりがい"を感じろ」と言おうが言うまいが、「やりがいを感じたらやりがいがある」ということでしかない。

結局、金銭的対価が少ないのにその仕事に従事しているのであれば、「やりがい払いに応じているだけ」なのだ。

さて、では、いわゆる「やりがい搾取」が過熱するとどうだろう。結論から言うと、加熱したってかまわない。「やりがい搾取」が過熱した状態は以下のような状態だろう。

この状態は一見貧乏になりそうだが、そんなことはない。経済が「お金」という単位で循環しているのが、「やりがい」で循環するだけである。

今までお豆腐をスーパーで買うときに100円払っていたのが、お豆腐を作るのはやりがいがあるので無料です。となるだけだ。給料は全くないが、お金を払う必要もない、という世界だ。

なので全く問題はない。

「いやいや、一部の資本家がやりがいがあると称して労働力を搾取しているのが問題なんだ!」

確かに。だが、それは、以下の図のように「対価自体が少ない」ことを言いそうだ。

これはもう「やりがい」とか「金銭」とか、支払いの媒体にかかわらず起きることなので、「支払う側の裁量で決まる」という社会システムの問題だろう。「やりがい」が多いか少ないかの問題ではない。切り分けて考えたいところだ。

まとめ

やりがいは搾取されても良い。「やりがい払い」としてやりがいを感じていることに間違いはないので、甘んじて搾取されよう。

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のろさとし | 実業家 | 製造業 | システムエンジニア
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