「罪を憎んで人を憎まず」か
いや、罪も憎んではいけない。なぜなら、冤罪の存在があるからだ。
紀州のドンファンが死んで、その妻が疑われたとしよう。薬物中毒でドンファンが死んで、妻しかそばにいなかった。かなり疑わしい。
さらに、妻がどっかの売人から薬物を購入していた。いよいよ疑わしい!
さらにさらに「完全犯罪 やり方」みたいな検索履歴がパソコンに入っていた。もうこりゃ完璧にやりやがったな。間違いないわ!
だが、裁判の結果は無罪だった。その結果を受けて、市民が「嘘だろ!なんで無罪やねん!」「犯罪者を野放しにするのか!」「無罪なら模倣犯出るやろ!!」と感情的になる。
実際に「市民感情とずれている」と裁判結果に物申しているコラムもあった。
だが、冷静になろう。状況証拠だけではやはり本当に犯罪を犯したかどうかは分からないのだ。
この世は因果関係の積み重なりで結果がある。
例えば、"石ころ"が地面に落ちているとしよう。なぜその"石ころ"がそこに落ちているかと言うと、実は、30年前の噴火で地球から出てきた溶岩が冷えて固まって、3年前に掘削され、掘削現場から運んできた砂利がトラックの上から落ち、その中にその"石ころ"があったのだ。そういう因果関係で"石ころ"がそこにある。
だが、その"石ころ"がどうしてそこにあるのかという因果関係は結果からは分からない。つまり、「この世は因果関係で出来上がっていて、その因果関係は記録されない」という仕組みで出来上がっている。
そういうこの世の仕組みの中に僕達の司法制度はある。因果関係が記録されない世界なので、何とか推察して、因果関係を浮かび上がらせるのだ。
ここで、「嘘だろ!なんで無罪やねん!」といった感情により因果関係が変化することはない。にもかかわらず、感情により因果関係を編集してしまったもの、それが「冤罪」だ。
冤罪は無い方が良いので、感情的に因果関係を編集するのはやめておきたいところだ。
まとめると、
「罪を憎んで人を憎まず」という人は、罪は憎んでいる。憎むということはつまり感情的なので、因果関係が感情的に改ざんされる可能性がある。しいては冤罪OKとなる。
冤罪が嫌な人は、
「罪を憎まず、人も憎まず、因果関係を愛そう」
これをスローガンにしよう。これで冤罪は無くなる。「少しくらいの冤罪はしょうがないよね」っていう人は今のまま罪を憎もう。