平井堅と〈弱い僕〉の物語 (0)はじめに
「優しさ」は「強さ」になりうるのか。この問いを、ある「歌バカ」の歌詞世界に浸りながら考えてみたい。
その「歌バカ」は、三谷幸喜脚本ドラマ『王様のレストラン』の主題歌「Precious Junk」(1995年)でデビューした。楽曲の世界観を数年間模索したのち、「楽園」(2000年)でブレイクして以降、ソングライティングの才と人並外れた歌唱力で支持を広げた。映画『世界の中心で、愛をさけぶ』の主題歌「瞳をとじて」(2004年)など、映画やドラマのタイアップで数々の名曲を生み、「僕の心をつくってよ」(2017年)はドラえもんの映画主題歌になった。平井堅--現代日本を代表する男性シンガーソングライターのひとりである。
平井堅の楽曲のなかで、ファンならずとも有名なものといえば、「瞳をとじて」だろう。
季節が過ぎ去っても、「僕」はいなくなった「君」を思い浮かべる。それだけでいいんだ。ラブソングの中でも、失恋バラードの類である。「あのコとのことはもう終わった話。さあ、切り替えて次行こうぜ、次!」というようなテンションではない。「季節が過ぎ去っても、僕はいなくなった君を思い浮かべる。それだけでいいんだ…」と。重い。「僕は君に恋をする」(2009年)、「いとしき日々よ」(2011年)、「half of me」(2019年)など、類作も多い。平井堅といえば「失恋バラード」を思い浮かべる読者も多いだろう。
しかし平井堅には、数こそ少ないものの、幸せなシーンを歌うラブソングもある。
冗談まじりに頬をつねられる。そばにいる君の温もりに満たされている。そんな幸せな状況ですら、失う怖さに襲われ、不安になっている。幸せな歌の中にすら、喪失の予感が影を落とす。
平井堅の歌詞世界における「僕」(語り手)は、とても弱い。「君」(愛する人)と別れてしまえば、季節に置き去りにされても未練を引きずる。「君」がそばで温もりを満たしてくれても、失う怖さに襲われている。平井堅の歌詞世界に描かれているこうした男性像を、筆者は〈弱い僕〉と呼びたい。
ラブソングの歌詞世界には、「(僕が)君を守る」という物語があふれている。
強くて頼りがいのある僕が、君を守る。ラブソングにおけるこうした男性像を、仮に「強い僕」と呼ぼう。「強い僕」はたくましく、カッコイイ。逆に〈弱い僕〉は、「強い僕」には程遠い。守ってくれるどころか、一緒に泣かれてしまいそうだ。
しかし、逆に問いたい。「僕」は、常に強いのか。「君を守る」と力強く表明することは、そう自らを鼓舞しなければならない弱さを同時に抱えている証ではないか。
強くありたいけれど、現実の自分は強くない。そうした乖離を抱えたとき、「僕」はどんな感情を抱くか。恋慕う相手に自分がふさわしいか不安になり、自分よりも優れた人に憧れ、自らにないものをもつ人に嫉妬し、失ったことの悲しみに打ちひしがれる。恋慕、憧憬、嫉妬、喪失。光の当たるものがあれば、その裏には影ができる。〈弱い僕〉の物語は、「強い僕」の物語の裏面なのではないか。「強い僕」が語らなかった、しかし確かに存在する心の側面を、〈弱い僕〉は語ってきたのではないか。
〈弱い僕〉は、ラブソングの歌詞世界において、「強い僕」(強くて頼りがいのある僕が、君を守る)に代わる男性像を提示した。これが、今のところの仮説である。
では、「強い僕」とは異なる道を歩んだ〈弱い僕〉は、何を達成し、どんな限界に直面したのか。この問いを、平井堅の楽曲に〈恋慕〉〈憧憬〉〈嫉妬〉〈喪失〉の側面から浸り、考えてみたい。この序文から始まる一連の記事は、シンガーソングライター・平井堅の、歌詞という文学表現に対する批評である。
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