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巨匠の達成と絶望 -宮﨑駿『君たちはどう生きるか』

 おもしろいファンタジーは作れた。しかし、ファンタジーで世界を変えることはできなかった。これが、今作を最後の長編とするであろう、巨匠の感慨なのか。宮﨑駿監督作品『君たちはどう生きるか』の感想を一言でいえば、そうなる。
(以下、ネタバレ全開でお送りします)


1 ファンタジー映画を観る、という体験をメタ的に描く

 この物語は、3つのフェーズから成り立っている。①(ファンタジーの世界に行く前の)現実、②ファンタジーの世界、③(ファンタジーの世界から帰った後の)現実の3つである。まず、それぞれのフェーズの展開をざっと見ておきたい。

①(ファンタジーの世界に行く前の)現実
 舞台は戦時中の日本。牧眞人(まき・まひと)は母を空襲で失い、父と共に地方へ疎開した。疎開先で眞人は、父の再婚相手である夏子に迎えられる。眞人は母に瓜二つな夏子を亡き母と重ねる。しかし夏子は父の配偶者としてお腹に子を宿している。眞人は夏子に対して複雑な心情を抱き、父には心を閉ざしている。
②ファンタジーの世界
 そうしたなか、眞人は家に度々現れる青鷺に挑発され、屋敷の近くにある不思議な塔に足を運ぶようになる。ある日、身重の夏子が森に行ったまま帰ってこなくなった。眞人は夏子を救うため、不思議な塔の中へ乗り込む。異世界での数々の冒険を経て、眞人は(幼い姿の)母との再会を果たし、夏子の救出にも成功する。眞人と夏子は現実世界に戻り、不思議な塔は崩れ去った。
③(ファンタジーの世界から帰った後の)現実
 数年後、終戦により疎開も終わりを告げる。眞人は父・夏子・(夏子が産んだ)弟とともに、疎開先の屋敷から退去し、東京へ戻った。

 この3つのフェーズは、映画館に来た人がファンタジー作品を観る体験自体をメタ的に描いている。すなわち、①現実(映画館に来る前)→②ファンタジー(映画を見ている時間)→③現実(映画館を出た後)、の流れである。①と③は両方とも「現実」だが、②が挟まることで①から③へは何かしらの変化が生まれているはずだ。

 ではこの作品において、ファンタジー世界はどんな役割を果たしているのか。以下では、この作品において、ファンタジーの世界(②)が現実の世界(①→③)に何らかの変化をもたらしたのか(あるいは、もたらさなかったのか)、を考える。その問いは、ファンタジー世界の物語が現実の世界対してもつ力は何か、という問いにもつながる。

2 おもしろいファンタジーは作れた

 作中、眞人がファンタジー世界で冒険をするフェーズ(②)では、ジブリの過去作(宮崎駿監督作品)のモチーフがこれでもかというほど出てくる。

 例えば、流砂の下に広がる別の世界(『風の谷のナウシカ』)、いくつかの世界につながる建物(『ハウルの動く城』)、小さく白い子どものような精霊たち(『もののけ姫』)、カラフルに光る石(『耳をすませば』)、電撃の走る回廊(『天空の城ラピュタ』)など、挙げればキリがない。

 往年のジブリファンたちは、これらのモチーフを見つけて色々と感慨を覚えることだろう。そして作り手自身も、自らの創り上げてきたファンタジーの世界が好きなのだろう。

 加えて、眞人が冒険に出かけた先の世界では、西洋的な風景(『ハウルの動く城』を想起させる邸宅や庭園)と日本的神話(石を積み上げた墓)の融合が見られる。一人の鑑賞者として思い起こせば、『ハウル』的な西洋の風景から、『もののけ姫』『千と千尋』的な日本の神話まで、様々な世界をアニメーションで表現してきたのが宮崎作品の魅力であった。

 ここまで想像力豊かなファンタジーの世界をアニメーションで表現しているのは、本当に見事だ。それをスクリーンで体験できるところが、この作品の魅力である。

3 しかし、ファンタジーで世界は変えられなかった

 だが表現の技巧が目立つ一方で、物語自体のもつ力は弱い。
 作品世界においても、冒険をする前後で、眞人たちの現実世界にほとんど変化はない。せいぜい、屋敷のそばにあった不気味な塔が崩れ去ったくらいだ。

 変化があったと言えるのは、眞人の内面だろう。彼は冒険に出る前、夏子を亡き母に重ね合わせていた。しかし冒険の最終盤、彼は夏子を「夏子さん」ではなく、初めて「夏子母さん」と呼ぶ。そして彼は、夏子と(幼い姿の)母が、別々の人間としてそこにいることを認識する。眞人は夏子を亡き母「ではない」第2の母であると認めた。「夏子母さん」という呼び方に、その認識の変化が現れている。

 しかし、それだけだ。眞人と夏子が現実世界に戻った後、状況説明的なモノローグとともに、物語はあっけなく終幕を迎える。眞人は家族とともに疎開先の家を引き払う。そこには父と夏子、そして(夏子が産んだ)眞人の弟であろう幼児の姿がある。ファンタジーの世界に出かけて得られたものは、眞人が内面に抱える課題をひとつクリアーしたということだけだ。夏子は父の配偶者であり二人の子どもが(自分のきょうだいとして)生まれるという小さな現実、戦争が(自分の国に不利な方向で)続き決着したという大きな現実のいずれも、何も変わっていない。

4 後継者の不在、弱まった魔力

 終盤の展開からは、ファンタジーの意義に対する諦めのようなものを感じる。

 冒険の終盤、眞人は美しい邸宅と庭園がある世界で、塔の主人である「大おじ」に出会う。大おじの机には絶妙なバランスを保った積み木の作品がある。大おじの仕事は、積み木を慎重に積み上げ、世界のバランスを保つことである。だが大おじは、自らに残された時間が長くないことを自覚している。大おじは自らの仕事の後継者を求めており、眞人に後継者の役割を託したいと告げる。

 しかし、その場に居合わせた(世俗的な)「インコ大王」が短絡的な行動に走る。インコ大王はさっさと積み木を積み上げようとするがうまくいかない。いらだったインコ大王は刀を手にし、机ごと積み木を斬ってしまう。すると黒々とした液体があふれ、世界は崩れていく。大おじは、諦めたような表情で目を閉じ、座ったまま動かない。そして眞人と夏子は危機一髪で現実の世界に戻り、ファンタジーを生み出した塔は崩壊する。

 塔から逃げ出した後、青鷺はあることに気づく。眞人は異世界のもの(大おじの積み木とお守りの人形)をポケットに入れたまま、現実世界に持ち込んでしまったのだ。青鷺は「あっちのものをこっちに持って来てはいけない」と眞人に警告する。しかし、青鷺はすぐにトーンを和らげる。「(魔力が)強くないからまあいいか」と。実際、眞人のこの行為は、その後の展開に特に影響を与えていない。

 この2つのできごと、「大おじが後継者を見つけられなかった」「ファンタジー世界の魔力は現実に対してほぼ力をもたなかった」は、宮﨑駿監督の個人史、スタジオジブリの沿革と現状、アニメーション・ファンタジーの社会における位置づけなど、様々な角度からの考察を喚起するものだろう。

 個人的には、塔が崩れたシーンで頭を抱え、エンドロールが終わった後もしばらくその場を動くことができなかった。『ハウルの動く城』では、肥大化した城は崩れたが、主人公たちは木の板一枚から再起を期していた。しかし『君たちはどう生きるか』では、ファンタジーを生み出した塔は跡形もなく崩れ去り、現実へと戻った登場人物たちにその存在を顧みられることもない。私が観た館・回では、エンドロール中に席を立つ観客がチラホラおり、明るくなるまで残っていた観客も特に感想戦で盛り上がる様子はなく足早に去っていった。

 おもしろいファンタジーは作れた。しかし、ファンタジーで世界を変えることはできなかった。これが、アニメーション映画の一時代を築いた巨匠の達した境地なのだろうか。今私は、自分の言葉としてこの原稿を書きながらも、自分の書いたことが的外れであってほしいという、奇妙な感情を抱えている。きっと、この巨匠の集大成となる作品には、もっと壮大なテーマや問題意識、そして希望があるはずだ。そうであって、ほしいのだが。

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