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久利冨周介
久利冨周介(クリトミ シュウスケ 1905〜1927)
本名長島勝重。明治38年2月生まれ。出生地・学歴等は不詳。
大正12年頃、旗揚げ間も無い剣劇団・筒井德二郎一座に加入。東健次を名乗り、関西某座で初舞台を踏む。以後、主に関西・九州地方を巡業し、約2年間の修業に励んだ。
大正14年、一座を脱退。牧野省三の招聘により、マキノ御室撮影所に入所。畑中蓼坡監督『中山安兵衞』で映画デビューを果たす。後に芸名も久里登美周介を経て、久利冨周介と改名。以後、金森萬象監督『正劍邪劍』など数多の作品に出演し、腕利きの悪役俳優として売り出した。芸名の名付け親は、マキノの映画監督・脚本家として活躍した壽々喜多呂九平。去る大正13年に公開された後藤秋聲監督『血櫻』で、阪東妻三郎が演じた主人公・平戸美周介が由来であるといわれる。昭和2年、井上金太郎・橋本榮一両監督『心中雲母坂』のロケーション撮影が開始。大雪の彦根城境内での撮影中、月形龍之介の扮する主人公・來馬甚七に斬られて池に放り込まれる浪人・山田淳太郎を演じたが、それがもとで流行性感冒を発症し、緊急入院する。なお、一部資料において、昭和3年に公開された牧野省三監督『忠魂義烈 實錄忠臣藏』のロケーション撮影中に倒れたとしているが、誤植である。
昭和2年3月3日、流行性感冒・急性肺炎の併発症のため、京都府京都市の自宅で死去。満22歳没。一部資料によれば、没年月日を同年3月1日としているが、誤植と思われる。急逝から3日後、同年3月6日にマキノ撮影所葬が挙行された。