葛木香一
葛木香一[カツラギ コウイチ]
経歴
本名根石次郎(出生名中澤次良)。明治23年3月12日、北海道函館市地蔵町(現在の北海道函館市豊川町)生まれ、北海道亀田郡大野村(現在の北海道北斗市大野地区)育ち。本名については、根石次良の説が有る。また、生年月日についても、明治26年の説が有る。弟も同じく映画俳優・光岡龍三郎。父・中澤喜三郎、母・中澤マツは実家で仕立屋を経営していたという。
明治38年、旧制函館小学校、旧制北海道庁立函館中学校をそれぞれ卒業後、俳優を志し、函館新派革新劇団という地方廻りの新派劇団に加入。葛木香一を名乗り、函館某座で初舞台を踏む。以後、新派・新劇の諸劇団を転々としながら、北海道地方を中心に巡業の旅に出る。大正6年、一座を脱退して上京。自ら一座を組織して関東各座に出演する傍ら、実業家・小林喜三郎が設立した小林商会製作の連鎖劇にもエキストラとして出演。早くも映画デビューを果たしている。当初は女形俳優として活動していたが、間も無く男優に転向した。大正8年、新派俳優・大山武一派に加入し、新たに設立された天活大阪撮影所に入所。映画俳優に完全に転向する。大正9年、國活に吸収合併された後も継続入社、國活巣鴨撮影所の専属俳優となる。新派映画『噫松本訓導』などに出演し、筑波正彌、大村正雄、立花淸らと共に二枚目役・立役として売り出す。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を一時停止。映画監督・細山喜代松の招聘により、日活向島撮影所に入所。同年9月1日、関東大震災発生に伴い、日活向島は間も無く閉鎖。山本嘉一、小泉嘉輔、三桝豐(三桝萬豐)、酒井米子、澤村春子らと共に日活京都撮影所に異動となる。大正13年、村田實監督『淸作の妻』で女優・浦邊粂子と共演して大ヒットを収め、瞬く間に同所の二枚目スターとなった。同年、トラブルメーカー・立石駒吉の大量引き抜きに遭い、水島亮太郎、鈴木歌子、千草香子ら数名と共に帝キネ芦屋撮影所に電撃移籍。大正14年、帝キネ芦屋撮影所の創立メンバーの連袂退社、帝キネ小阪撮影所の強制閉鎖などに伴い、帝キネは3つの派閥に分裂。立石駒吉と同行して東邦映畫製作所(等持院撮影所)の創立に参加するが、僅か数ヶ月で解散。立石と袂を分かち、日活京都撮影所に復帰。この頃から時代劇部に転じ、築山光吉監督『義刄』をはじめ数多の作品に出演した。昭和7年、日活専務取締役に新任した中谷貞頼による大量馘首に猛反発し、尾上華丈、淺香新八郎、久米讓、常盤操子らと共に連袂退社。フリーランサー協會に所属し、太秦發聲映畫、片岡千惠藏プロダクシヨン、市川右太衞門プロダクシヨン、エトナ映畫、第一映畫、マキノ・トーキーの各作品に出演。昭和11年、新興京都(太秦)撮影所に移籍。かつて主演スターだった松本泰輔、荒木忍、東良之助らと共に名脇役として鳴らし、その傍ら新興東京(大泉)撮影所の作品にも特別出演。昭和17年、戦時統制により、大映に吸収合併された後も継続入社、大映京都撮影所の専属俳優となった。
昭和20年、第二次世界大戦終結後も引き続き大映京都撮影所の専属俳優として活動。伊藤大輔監督『王將』をはじめ、数多の時代劇・現代劇に脇役・端役出演。また、旧知・稻垣浩が設立した稻垣プロダクション、並びに東横映画、東宝の作品にも積極的に出演した。昭和32年、第2回「映画の日」中央大会において、映画業界に40年以上勤務した功績が認められ、横山運平、荒木忍、東良之助らと共に永年勤続功労章を受章した。
昭和39年9月6日、胃癌のため、京都府京都市の自宅で死去。享年74歳。遺作は三隈研次監督『女系家族』。
関連項目
天活俳優名鑑(準備中)
國活俳優名鑑(準備中)
日活京都俳優名鑑(準備中)
千惠プロ俳優名鑑(準備中)
右太プロ俳優名鑑(準備中)
帝國キネマ俳優名鑑(準備中)
新興キネマ俳優名鑑(準備中)