
嵐 橘樂
嵐 橘樂(アラシ キラク 1874〜1922)
本名永田長治郎。明治7年7月18日、大阪府大阪市南区久左衛門町(現在の大阪府大阪市中央区心斎橋)生まれ。出生地を「久右衞門町」と表記している資料も有るが、誤植である。
父は元二代目嵐璃珏門下の歌舞伎役者であり、後年は中座(中の芝居)の座元・頭取を務めた嵐璃喜藏。兄も元四代目嵐璃寬門下の歌舞伎役者・嵐璃三郎という芸能一家で育った。また、大正期に神奈川県横浜市で活動した元活動写真弁士・倉澤寬次(倉澤かほる)は、橘樂の甥にあたる。
明治14年、四代目中村芝翫の門下となる。中村成子と名乗り、大阪某座で初舞台。明治18年、一座を抜け出し、兄・嵐璃三郎、四代目嵐璃寬と共に地方巡業に出たとされる。明治20年、市川小猿、嵐對太郎率いる少年歌舞伎一座に加入。この間、山陽・四国地方での巡業中に尾上松之助、澤村金十郎と知り合ったという。明治23年、父・嵐璃喜藏の逝去に伴い帰京、四代目嵐橘三郎の養子となる。この頃は中村鳥次郎を名乗っていたようだが、後に嵐橘樂(嵐喜樂)を襲名。以後、中座(中の芝居)など関西各座に出演。明治27年頃、兄・嵐璃三郎らと共に實川延二郎一座に加入。阪井座専属となり、五代目嵐德三郎、中村芝加之助(中村七賀之助)らと共演。明治31年、實川延二郎の入営及び東京座の転勤に伴い解散。三代目市川市十郎一座を経て、四代目嵐橘三郎の許に復帰するも、明治35頃に再離脱。自ら一座を組織し、今度は山陰地方の巡業に出たが、不入りと悪天候の不幸続きであったという。
明治41年頃、地方巡業中に牧野省三に見出され、千本座専属に転向。明治42年、尾上松之助一派が同座専属となり、約20年ぶりに松之助と再会。また、牧野省三の招聘により、日活の前身である横田商會に入社。牧野省三監督『碁盤忠信 源氏礎』で映画デビューを果たす。明治45年、横田商会が日活に吸収合併。尾上松之助、片岡市之正らと共に日活法華堂(関西)撮影所に入所。以後、松之助映画には欠かせない名脇役として、牧野省三監督『實錄忠臣藏』など殆どの作品に出演した。
大正11年3月末、心臓麻痺のため死去。享年47歳。遺作は旧劇『首賣勘助』。