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金子春吉

金子春吉[カネコ ハルキチ]

経歴

本名金子弘。明治37年3月27日、東京府東京市下谷区下谷龍泉寺町(現在の東京都台東区竜泉)生まれ。本名については、金子鐵郎の説が有る。
大正4年、旧制小学校を早期卒業後、養父にあたる新派俳優・若月一郎(詳細不明)によって組織された某歌舞劇一座に急遽加入する。本名金子弘を名乗り、東京某座で初舞台を踏む。大正5年解散後、旧制正則中学校に進学。学業の傍ら、新派俳優・西野薰一座に加入し、引き続き青年俳優として関東各座に出演した。大正11年、旧制正則中学校を卒業後、日活向島撮影所に入所。映画俳優に完全に転向。芸名も金村春夫と改名し、細山喜代松監督『戀を賭くる男』で映画デビューを果たす。同年9月1日、関東大震災の発生に伴い、日活向島は間も無く閉鎖。山本嘉一、小泉嘉輔、澤村春子など多くの男女優が日活京都撮影所に異動する中、金子は養父・若月一郎の某新派劇団の後援のため一時新派に戻った。新派俳優・佐藤歳三一座と合同して一座を組織し、関東地方を巡業する。大正13年解散後、無産新劇團という新派劇団を組織。関西・九州地方を巡業していたが、不入りと内紛に伴い間も無く解散した。同年、日活京都撮影所に入所。芸名も金子鐵郎と改名し、楠山律・若山治両監督『寶石とパン』など数本の現代劇に脇役出演。大正14年、徴兵検査に合格したため一時退社し、陸軍歩兵学校に入校。大正15年、間も無く中退して、日活京都撮影所に復帰。この頃から時代劇部に転じ、特に伊藤大輔監督作品には欠かせない重要な中堅俳優として活躍。昭和3年、芸名を本名金子弘に戻して活動していたが、諸事情により馘首された伊藤大輔と共に突如退社。昭和5年、伊藤大輔は市川右太衛門プロダクシヨン、松竹下加茂撮影所を経て日活京都に復帰するが、金子はフリーランサー協會に所属し、細山喜代松プロダクシヨン、第一映畫聯盟、新興日本キネマ雲雀ヶ丘撮影所、冨士映畫製作合資會社、ミナ・トーキー、日本發聲映畫社の各作品にフリー出演。昭和7年、改組されて間もない阪東妻三郎プロダクシヨンに入所。堀川浪之助と共に同所の俳優幹事となる。昭和8年退社後、再びフリーランサーとして、葉山映畫聯盟、朝日映畫聯盟などの各作品に出演。昭和9年、田村邦男、葉山純之輔、久米讓らと共に日活京都撮影所に臨時入所、約4年ぶりに復帰した。昭和10年、芸名を金子春吉と改名。昭和11年、日活多摩川撮影所に移籍。現代劇に転じ、老け役として数多の作品に脇役・端役出演。昭和15年、芸名を金春新葉と一時名乗っていたが、間も無く金子春吉に戻している。昭和17年、戦時統制により、大映に吸収合併された後も継続入社、大映東京撮影所の専属俳優となる。昭和18年、山本弘之監督『重慶から來た男』が最後の出演作品となった。
第二次世界大戦が終結した昭和20年8月15日以降の金子の消息は不明。享年不詳。

関連項目

  • 日活向島俳優名鑑

  • 日活京都俳優名鑑(準備中)

  • 右太プロ俳優名鑑(準備中)

  • 松竹下加茂・京都俳優名鑑(準備中)

  • 阪東プロ俳優名鑑(準備中)

  • 日活多摩川俳優名鑑(準備中)

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