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關根達發
關根達發(セキネ タッパツ 1883〜1928)
本名大橋橘太郎(出生名關根橘太郎)。明治16年1月14日、東京府東京市下谷区金杉(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。生年月日については、明治12・18・21年1月17日の説が有り、判然としないが、学歴・職歴等から判断した。
明治28年、旧制渡邊小学校を卒業後、旧制海軍予備校に進学するも中退。下駄屋、製壜所事務員など複数の職業に従事する。明治33年、俳優を志し、新派俳優・伊井蓉峰一座に加入。ところが、舞台に上がる事は無く、諸事情により僅か1ヶ月で脱退して帰郷。明治34年、新派勉励會一座という新派劇団に加入。關根達發を名乗り、宇都宮壽座で初舞台を踏む。以後、関東地方を中心に巡業の旅に出る。明治36年、栃木県上都賀郡足尾町(現在の栃木県日光市)にあった某座に出演中、病気に倒れて入院。退院後、一時芸能活動を休止し、横浜市役所の臨時職員を務めていた。明治37年、下阪して、新派俳優・山田九洲男一座に加入。道頓堀朝日座で初代喜多村綠郎、秋月桂太郎らと共演し、芸能活動を再開。明治38年、高田實一座に加入。名古屋・大阪各座に出演したのち、自ら一座を組織して朝鮮にも進出。明治39年、帰朝して高田實一座に戻り、引き続き本郷座、眞砂座などに出演した。