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染谷定之助

染谷定之助(ソメヤ サダノスケ 1870〜不詳)

本名染谷定之助。旧暦 明治3年11月1日(グレゴリオ暦 1870年12月22日)、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)生まれ。本名については、上記の他に染谷貞之助とする説が有る。
明治15年、旧制小学校を卒業しているが、芸能界入り以前の動向は不明。明治22年、歌舞伎役者を志し、歌舞伎役者・初代中村芝鶴の門弟となる。中村芝鷺多を名乗り、本郷座の前身にあたる春木座で初舞台を踏む。以後、初代中村芝鶴と共に新冨座、水戸常盤座など関東各座に出演。明治44年、芸名を中村芝鷺三と改名し、引き続き東京歌舞伎座など関東各座に出演。明治45年、梅屋庄吉の招聘により、女役者・中村歌扇、中村歌江一派らと共に日活の前身であるエム・パテー商會製作の旧劇に出演。早くも映画デビューを果たした。
大正2年、浪曲師・二代目吉田奈良丸によって創設された彌滿登音影(大和音影)に移籍。映画俳優に完全に転向。芸名も染谷廣之助と改名し、同社製作の新派・旧劇に出演したとされるが、詳細な作品等は不明。大正3年、彌滿登音影(大和音影)が不評と経営難により解散。同じく元初代中村芝鶴門下の歌舞伎役者だった立花貞二郎の招聘により、日活向島撮影所に移籍。上記芸名の他に、本名染谷定之助染谷圭之助染谷廣次染谷廣染谷弘と度々芸名を変えながら、新派映画『あかね染』など数多の作品に出演。高木桝次郎、上杉六郎、藤井源市らと共に日活新派の老け役・敵役として活躍した。大正12年9月1日、関東大震災発生に伴い、日活向島は間も無く閉鎖。山本嘉一、小泉嘉輔、澤村春子など殆どの男女優が日活京都撮影所に異動していく中、染谷は同行せず。大正13年、石川秀道、藤川三之助、保瀨薰、速見稔、都賀靜司らと共に東亞甲陽撮影所に移籍。古海卓二監督『愛の欠伸』などに出演したが、同年末退社。大正15年、東京映畫月報社(教育映画)によって製作された森要監督『新潟縣魚沼川の悲慘時 四つの魂』に新劇女優・御園艶子と共演したが、同作が最後の出演作品となった。
大正15年9月以降の染谷の消息は不明。享年不詳。

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