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大村正雄

大村正雄[オオムラ マサオ]

大村正雄(1878〜?)

経歴

本名早坂正巳。明治11年10月1日、秋田県北秋田郡大館町(現在の秋田県大館市)生まれ。生年月日については、明治12・17年10月2日の説が有る。
明治27年、旧制中学校を中退後、上京して旧制專修学校に進学するが、後に旧制東京專門学校に転学。一部資料では、旧制東京簿記学校に転学したという説も有る。明治29年、やはり中退して、新派俳優・佐藤歳三一座に加入。大村正雄を名乗り、東京某座で初舞台を踏む。以後、川上音二郎が設立した新劇場・川上座(改良座)をはじめ東京各座を巡業する。その後、自ら一座を組織して北海道地方を巡業したのち帰京、井上正夫一座に加わる。明治43年、井上正夫、桝本淸らによって有楽座にて組織された新劇団・新時代劇協會に加入。藤村秀夫、小堀誠、立花貞二郎ら新派俳優のほか、岩田祐吉、諸口十九ら東京俳優養成所の新進俳優とも共演していたが、明治44年解散。再び新派に戻り、東北地方の巡業に出るなど新派・新劇の劇団を転々とした。大正2年、桝本淸の招聘により、日活向島撮影所に入所。映画俳優に転向。小口忠監督『橘花子』などに出演し、關根達發、秋月邦武、藤川三之助(藤川三之祐)らと共に初期日活新派の立役・二枚目役として売り出す。大正8年、小口忠監督『戀の津滿子』に出演したのを最後に、水島亮太郎と共に早期退社。しばらく新派に戻った後、國活巣鴨撮影所に移籍する。葛木香一主演『雲光の岐に』など、かつて日活向島撮影所に在籍していた細山喜代松の監督作品を中心に出演した。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。牧野省三の招聘により、衣笠貞之助、横山運平、宮島健一、藤川三之助(藤川三之祐)ら日活向島脱退組と共にマキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍。桝本淸監督『再生』に出演したが、間も無く退社した。
関東大震災が発生した大正12年9月1日以降の大村の消息は不明。享年不詳。

関連項目

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