荒木 忍
荒木 忍[アラキ シノブ]
経歴
本名荒木武雄。明治24年4月26日、新潟県刈羽郡田尻村(現在の新潟県柏崎市)生まれ。生年月日については、明治34年の説が有る。また、出生地についても、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)の説も有るが、誤植と思われる。父は元長岡藩士であったという。
明治39年、旧制新潟県中頸城郡立高田農学校を中退後、しばらくは家庭にあったが上京して、東京瓦斯(東京ガス)株式会社に入社。配管工などに従事していたが、人に騙されてタコ部屋に送還されるなど過重労働の憂き目に遭ったという。大正3年、会社を抜け出し、地方巡業をしていた某劇団に加わり、荒木忍を名乗って初舞台を踏む。常盤座(浅草公園)など東京各座に出演したのち、女優・村田榮子一座、某大衆演劇団を転々とした。大正9年、一座を脱退。日活向島第三部(新劇部)の新設に伴い、大村浩造(大村敦)、中山歌子、酒井米子らと共に招聘され、日活向島撮影所に入所。映画俳優に完全に転向する。大洞元吾監督『破れ三味線』などに出演したが、好評のうちに間も無く解散。大正11年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍する。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。しばらくは自ら一座を組織し、東海・関東地方の巡業に出ていたが、牧野省三の招聘により、衣笠貞之助、島田嘉七、宮島健一、藤川三之助(藤川三之祐)らと共にマキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍。金森萬象監督『爭闘』などに出演し、悪役俳優として売り出す。大正13年、東亞キネマとの吸収合併に伴い東亞マキノ等持院撮影所と名称変更。關操、根津新、速見稔(速見實)、藤川三之助(藤川三之祐)、都賀靜司らと共に東亞甲陽撮影所に異動となる。大正14年、牧野省三が再独立し、新たにマキノ・プロダクシヨンが設立されるが、荒木は残留。大正15年退社し、マキノ御室撮影所に入所。冨澤進郎、マキノ正博(マキノ雅弘)両監督『青い眼の人形』などに出演し、この頃から主に老役として大いに活躍する。昭和4年7月25日、牧野省三逝去後も同所に残留し、マキノ正博(マキノ雅弘)の新体制を支えた。昭和6年、マキノプロは経営難のため解散。一時休養したのち、新興京都(太秦)撮影所に移籍。かつて主演スターだった松本泰輔、東良之助、葛木香一らと共に名脇役として鳴らし、その傍ら新興東京(大泉)撮影所、嵐寬壽郎プロダクシヨン、入江ぷろだくしよんの各作品にも積極的に出演。昭和17年、戦時統制により、大映に吸収合併された後も継続入社、大映京都撮影所の専属俳優となった。
昭和20年、第二次世界大戦終結後も引き続き大映京都撮影所の専属俳優として活動。丸根賛太郎監督『狐の呉れた赤ん坊』をはじめ、亡くなる直前まで数多の作品に脇役出演。また、プロデューサー・マキノ眞三が設立したマキノ映画社、新光映画、並びに東映京都撮影所、松竹京都撮影所、宝塚映画製作所など、関西各社の作品にも特別出演したほか、日活向島時代からの旧知であった衣笠貞之助、溝口健二の他社作品にも特別出演するなどの活躍ぶりを見せた。昭和32年、第2回「映画の日」中央大会において、映画業界に40年以上勤務した功績が認められ、横山運平らと共に永年勤続功労章を受章した。
昭和44年1月8日、胃癌のため、京都府京都市の自宅で死去。享年77歳。遺作は山本薩夫監督『牡丹燈籠』。
関連項目
國活俳優名鑑(準備中)
牧野キネマ俳優名鑑(準備中)
東亞キネマ俳優名鑑(準備中)
新興キネマ俳優名鑑(準備中)
戦前大映俳優名鑑(準備中)