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秋月邦武

秋月邦武[アキヅキ クニタケ]

秋月邦武(1884〜?)

人物情報

  • 本名:岩城邦一

  • 生年:1884年5月16日

  • 没年:?

  • 出身地:島根県松江市

経歴

本名岩城邦一。明治17年5月16日、島根県松江市生まれ。生年月日については、明治16・20・21年の説も有る。父・岩城重藏は元松江藩士の勘定奉行であり、明治維新後は三井銀行松江支店長を務めていたという。
明治30年、旧制小学校を卒業後、旧制私立明治義會中学校(旧制私立明治議會中学校の表記も見られる)に進学するも中退。明治33年、俳優を志し、初代村田正雄一座に加入する。秋月邦武を名乗り、大阪横井座で初舞台を踏む。明治35年以前、一座は一時解散し、東海地方で活動していた新派劇団・勇美會を経て、靜間小次郎、川上薰ら勇美會の残党と一座を組織。主に東海地方を巡業。明治37年、新派俳優・秋月桂太郎の門弟となり、関西各座に出演する。この間、再び自ら一座を組織し、北陸地方の巡業にも出ている。明治39年、革新派劇団・竹内一郎一座に加入し、新冨座などに出演する。大正4年、一座を脱退し、井上正夫一座に転じる。浅草御國座(浅草みくに座)の専属となり、藤村秀夫、吉田豐作、木下八百子、武田淸子らと共に天活(小林興行部)製作の連鎖劇に共演するも馴染めず、間も無く脱退した。大正5年、日活向島撮影所に入所。新派映画『伯爵御次男』をはじめ、数多の作品に出演。關根達發、大村正雄、藤川三之助(藤川三之祐)らと共に初期日活新派の二枚目として売り出し、特に女形俳優・立花貞二郎の相手役として大いに活躍した。大正7年、日活向島幹部俳優と山本嘉一、藤野秀夫ら新たに入社した俳優との待遇をめぐって内紛が発生。田中榮三監督『黑水晶』に出演したのを最後に、立花貞二郎、土方勝三郎、二島竹松らと共に連袂退社。脱退後、一時休業したのち立花貞二郎、土方勝三郎、中田誠一らと共に実演に走った。同年11月11日、立花貞二郎が巡業中に急逝するが、秋月は引き続き東北・北海道地方を巡業していたようである。
関東大震災が発生した大正12年9月1日以降の秋月の消息は不明。享年不詳。

関連項目

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