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世に材なきを憂えず、その材を用いざるを患う

幕末の志士 吉田松陰

●この言葉のあとに、「大識見、大才気の人を待ちて、群材始めてこれが用をなす」と続く。

●この世に人材がないといって心配するには及ばない。人材はちゃんとあるのに登用しないのが憂慮に耐えないのだ。識見・才気のあふれる人が現れて、初めて、人材が生かされるのに、そうした人がいないのが、残念なことなのである。

●松陰は幕末の志士として名高い。江戸で佐久間象山に洋学を学び、ペリーの浦賀再来のときに世界の情勢を知るため海外密航を企てたが、発覚して捕らわれ入獄。その後、萩で幽閉を命じられ、その時自邸内に松下村塾を開いた。

●このとき松陰は二十七歳、幕府の重罪を犯し、いわば仮釈放の身であったが、藩から特に兵学の講義を許された。しかし、そんな身なので、藩の上層部からは危険視され、松下村塾に学びに来るのは足軽や小者・町人の師弟がほとんどであった。

●例外は藩校明倫館でも秀才とされた久坂玄瑞と彼が連れてきた高杉晋作である。二人は上士に属した。

●松陰が松下村塾で教えたのはほぼ二年にすぎない。それにもかかわらず、幕末から維新への大回転に活躍した高杉晋作・伊藤博文・前原一誠・山県有朋・品川弥二郎らが輩出したのである。

●桂小五郎(木戸孝允)は松下村塾を開くはるか以前、松陰二十歳、小五郎十七歳のときから始まる師弟関係であるから驚く。

●幕末の萩にだけ、たくさんの人材がいたわけではない。人の才能を見抜き、それを育てる「大識見、大才気」の松陰がいたということである。

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