少年院に収容される”非行少年のエリート”と普通の子どもの本質的な違いは何か『ケーキの切れない非行少年たち』
【レビュアー/工藤 啓】
少年院は閉ざされた場所ではない
「少年院に行ってみませんか」
コロナ禍以前、私は友人や知人に声をかけ、北は北海道から南は沖縄まで一緒に少年院に出かけていました。
「興味ないから」というひとはひとりもいませんでした。むしろ、明らかに超多忙なひとたちが、無理やり時間を作り、自費で新幹線や飛行機に乗って少年院に来てくれました。
そして多くの人が、実際に少年院の内部や少年たちを見て、「自分にできることはないだろうか」と一緒に考えてくれました。
この少年院スタディツアーを通じて、これまで漠然としていた少年院や少年たちへの誤解が解け、理解が進んでいきました。ツアー参加者は延べ人数にして300名ほどではないでしょか。
実は少年院は閉ざされた場所ではありません。
毎年数回、一般のひとに少年院見学の機会を開いています。しかしながら、その情報があまり流通していません(いまはほとんどやれていないと思います)。
少年院は開かれている。そして、少年院に関心のあるひとはたくさんいる。
そこがうまく結びついていなかったこともあり、私たちはNPO活動を通じて、少年院と関心者をつないでいます。
現在、認定NPO法人育て上げネットでは、定期的に4か所の少年院、不定期で複数の少年院に伺い、少年にICT教育、学習支援、キャリア講座などを開催しています。
24時間365日、少年と向き合っている法務教官にとって、外部の人間が貢献できる余地は多くないかもしれません。しかし、外部と少年院および少年との信頼関係の構築は、彼ら彼女らが出院後に頼る先のひとつとして認識してもらうために、とても大切な活動だと考えています。
私個人は、4,5年ほど前から定期的に在院少年とかかわるようになり、少年院や少年の理解も少しは深まっていると思います。
当初を振り返ると、どのような少年たちがいるのかわからず、対面の際には非常に緊張していました。
彼ら・彼女らとかかわる機会を持った知人・友人も同じでした。少年院の建物に入る前時には、「こういうことがあったらどうしたらいいのか」「どこまで自分の話をしていいのか、相手の話を聴いていいのか」という確認事項に多くの時間を費やしました。
少年院や刑務所は、多くのひとにとって身近な場所ではありません。
映画やドラマ、ニュースといったメディアを通じてしか耳目に触れない世界かもしれません。しかし、実際に足を運び、五感を使って観察すると、これまで蓄積した情報と目の前の状況の差分が埋まり、
「何が自分にできるのだろうか」
そのように考えるようになります。とても不思議な空間です。
新書『ケーキが切れない非行少年たち』がベストセラーに
昨年夏に出版された、新書「ケーキの切れない非行少年たち」の販売部数が50万部を越えたというニュースを読みました。本がなかなか売れないと言われるなか、少年院を舞台にした本がこれほどまで読まれていることに正直驚きました。
本書は、少年院の内外で私たちがかかわっている少年たちのこと、かかわっていない少年たちのことについてあらためて学べるものであり、非行少年に対する社会的な関心を顕在化させた書籍だと考えます。
その本を原作に出版されたのが漫画版『ケーキの切れない非行少年たち』です。少年院勤務医で精神科医の六麦克彦(ろくむぎ・かつひこ)の視点から、少年院に収容される少年たちの実態を描いていきます。
「少年院の数は全国に約50棟。入院者数は1年間で約2千名。その数は何らかの事件を起こし、家庭裁判所で処理された約5.5万人のうちの上位4%程度に値する。」
「彼らは言わば非行少年のエリート中のエリート・・・」
非行少年のエリートという言葉に、どのような少年の姿が思い浮かぶでしょうか。
そして、どのような非行内容によって少年院に収容されることになったのか、気になりませんか。
本書は、少年が何をしたのかではなく、その行為の背景にどのような生育環境があったのかに焦点を当てています。貧困であったり、暴力やネグレクトを受けていたり、家庭という場所がなかったり。
もちろん、同じ環境でも非行をしない少年がいます。少年院とは無縁な世界で生きていく少年もいます。
その差異はどこにあるのでしょうか。
何が少年のユキサキをわけるのでしょうか。
どんな支援があれば、被害者も加害者も生まれなかったのでしょうか。
私たちは、私たちの社会はどうあるべきなのでしょうか。
そのような社会的視点をもたらす本書は、教育の場でも読んでほしい漫画です。
「彼は・・・彼らはなぜベンツマークのように、かんたんにケーキを3等分できないのか。凶悪犯罪を起こした非行少年たちのなかには、こんなかんたんな問題さえわからない少年もいる」
「世間からは誤解されがちだが、彼らはずっとそんな挫折を繰り返してきた。そういった少年たちなんだ」
僕が実際に出会った少年のこと
私が直接勉強を教えた少年のことを書きます。その日は一対一で、少年がわからない教科単元について一緒に考える時間でした。ウチの職員のひとりが初日だったので、僕はすぐ傍について講師2名、少年1名という体制になりました。
本書でも出てくるような身なりで眼前に立つ少年は、10代のあどけなさが残っています。机をはさみ、あいさつをします。
少しだけ雑談をしながら、今日のテーマについて少年から教えてもらいます。自分自身でやれるだけの勉強をしたんだろうなと持ってきたテキストとと参考書を見て思いました。彼のノートにはたくさんの勉強の軌跡がありました。
その日は、分数と正負の数などでわからない問題があるということでした。最初に提示された問題は、分数と分数を割り算するものでした。
「ここがわからなくって」
こんな問題もわからなくて恥ずかしい気持ちがあることは表情から読み取れました。僕らは「ここって難しいよね」「できてる問題もあるよね」と言うと表情がパっと明るくなりました。もしかしたら勉強面でほめてもらったことがないのかもしれません。
わからない問題の何がわからないのかを確かめるため、ゆっくり白紙に数字を書きながらコミュニケーションをしました。おそらく、分数そのものがうまく理解できておらず、何となく計算して合っているときと合ってないときがある。問題集の正解を見て、間違っていたらその通りに書き直すことを繰り返していたようでした。
そこで分数について、りんごやみかんの絵を使いながら説明し、理解度合いを確認して進めました。すると、すぐに理解が進み、わからなかった問題も解けるようになりました。その日に持ってきた課題の先の問題もさらっと解いていきます。
正解に丸をつけます。大げさに大きな丸にしたり、花丸にしたりすると、「これくらいわかりますからぁ」と言ってはにかみます。
そのとき、私はこう思いました。
目の前の少年は、小学校の算数で分数がわからないとき、大人に教えてもらう機会や環境がなかったんだな。
そして、わからない部分がどんどん積み上がって、よりわからなくなると、どこかでわかりたい気持ちを隠し、わからなくていいものとして心の奥に学ぶ機会を封印したのかもしれないなと。
少年院では、その少年の名前も成育歴も、犯した罪も知ることができません。それらを聞くことも原則許されていません。少年もまた外部から来た私たちに個人情報を語ることがありません。そのためすべては私の憶測です。
ただ、『ケーキの切れない非行少年たち』のなかで何度も出てくる丸いケーキを3等分できない描写を見るたびに、
「当たり前の知識や能力のようなものは、自然と身につく。」
そう私たちが考えていることは、まったくもって自然なことではなく、周囲の大人や偶然の環境に大きく左右されるものだと思わざるを得ません。
彼ら・彼女らの犯した罪によって被害を受けたひとたちがいます。その行為を正当化することはできません。
その一方で、その行為に至った背景もまた無視すべきものと考えるわけにもいきません。
自己責任論で片付けられがちな少年非行ですが、本書に出てくる背景や成育歴を知り、背景にある社会的に足りないものを埋めていくことは、この社会でともに生きる私たちが考え、実践していかなければならないことです。