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適度な距離感を取れない
お節介は自分勝手で甘えだ。必要としていないのに、良かれと思って与えるのは与える側の自己満足だ。そんな理屈は重々承知。
だけどね!気になっちゃうんだよ。理屈じゃなくて感情で動いちゃう。大丈夫かな、私に何かできるんじゃないかなって。そして、それを相手も必要としているんじゃないかなって。
私自身は寂しがり屋だから、どんな時も放っておかれるより心配して欲しい。だけど、そうではない人もいっぱいいる。
結果は大概私の空回りで終わる。ああ、間違えたんだなと気づく。こういうことを大なり小なり、何度も繰り返してしまう。
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場を盛り上げようとするのも、また同じかもしれない。沈黙に耐えられず、話題を提供したり、相手に質問をしたりする。そして、それを繰り返してだんだん私はインタビュアーみたいになっていく。
もしかしたら、相手はうるさいなと思っているかもしれない。その場ばかりの沈黙は凌げても、後から思い返して心地よいコミュニケーションだっただなんてお互い感じ得ない。インタビュアーになるのはもうやめようと思っても、何故だかやめられない。
相手を思ってのことが、誰のためにもなっていない。沈黙を避けることも、お節介も。
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同時に、お節介で何が悪いんだと思っている自分もいる。こっちが気を遣って(あげて)いるのに。こっちが心配して(あげて)いるのに。時には、強引さも重要でしょ?いい解決方法はひとりで悩むより誰かに相談した方がいいよ。
違う...んだよね。この〇〇してあげているというのは傲慢さに溢れた行為だ。
ただこの性格は、人の人生に関わる職業に就く予定の私にはプラスに働くと思っている。日本の医療はNOがない限り、生きることを全面的に肯定する。できることを全て与えようとする。その流れの中で、医師として働く人の特性としてお節介は役に立つと信じている。
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もうおじいちゃんだけどね
令和5年 比叡山から発信する言葉
「忠恕」
〜誰に対してもまごころと思いやりを忘れずに〜
「忠」中の下に心は、偏らない心でまごころを表し、
「恕」如の下に心は、しなやかな心を表します。
忠はまた、まごころを尽くして努めること、
想はやさしい心で思いやることです。
忠と怒を心がけましょう。
比叡山延暦寺
そんなことを考えていたら、家族LINEにこんな写真と言葉がマイマザーから送られてきた。まごころと思いやりを持って、敢えて他人に何もしないというのもあり得るかもしれない。見守るということか?相手が求めてくるまで待つ。待つということをする。そういうことができるようにならないと、私は自らの人間関係を歪めてしまう。
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