7 自由に生きる―タイ仏教僧として―
スカトー寺にも、噂を聞きつけて日本人がやってくるようになりました。最初はスタディ・ツアーの大学生を受け入れていたのですが、だんだんと口コミで広がり、様々な年代の悩める人たち、あるいは、うつや統合失調症など心の病を抱えた日本人もやってくるようになりました。彼ら、彼女らは、お寺という安心できる居場所を得て、瞑想したりして過ごすうちに、日本では二進も三進も行かなかった症状がてきめんによくなっていきました。私自身も瞑想指導やカウンセリングをしながら、そうした彼ら、彼女らの大きな変化を何度も目にすることになり、瞑想という技法が果たす大きな癒しの可能性をさらに確信することになりました。同時に、お寺のような安心して心落ち着けられる居場所の大切さも実感できるようになりました。
それから徐々に、日本にも招かれる機会が増えてまいりました。最初は、外国人の生活支援をしているボランティア団体に招聘されて、タイのお坊さんと一緒に来日して、各地の在日タイ人コミュニティを回って、仏教儀式を執り行ったり、日本で生活していく中での具体的な困難や悩みを伺って、仏教的なアドバイスをしたりしていました。そのうちに、日本人を対象に、講演をしたり、瞑想会をしたり、あとは個人面談という悩み相談をする機会もどんどん増えてくるようになって、今日に至っています。
このように、私自身、瞑想体験や多くの人たちの瞑想指導、あるいはカウンセリングなどの経験を経て、ブッダの教えを基にした、癒しの方法を確立してきました。そして、菩薩的な慈悲の実践を通して、自他共の抜苦与楽を実現していくことこそが私のライフワーク、あるいは人生のミッションだと認識するようになりました。とりわけ「自由」といった場合、それは決して個人の内面の自由に留まるものではなく、釈尊の大願である、自分も含めた一切衆 生の苦しみからの解放、それこそが「本当の自由」であると、確信するに至った次第です。
ここでちょっと、最近日本でもよく耳にするようになった「マインドフルネス」について言及しておきたいと思います。というのも、「自由」というものを真に実現していく上で、この「マインドフルネス」という言葉がキーワードになるのではないかと思うからです。
この「マインドフルネス」という言葉は、パーリ語の「サティ(気づき)」から来ています。気づきとは、目覚めた心のことで、自覚的に、価値判断を交えず、今ここに起こっていることをあるがままに観察していくことを言いま す。それは同時に、主観的な視点、すなわち、自分の感情や思考のフィルターを通して世界を見ていたところから、 フィルターを通さないであるがままの客観的な視点へとモノの見方を変化させていくことでもあります。これは自他共の抜苦与楽を実現していくためにとても重要なポイントです。
例えば、お互いが自分の感情や思考にとらわれた主観的な視点で相手を見ていたら、人それぞれ考え方というのは異なっていますから、必然的に対立構造になってしまいます。ところが、瞑想によって、純粋に客観的な視点で観ていけるようになると、自分も相手も平等に眺めることができるようになります。そしてそれにより相手側の意見もあるがままに傾聴でき、またその意見の奥にある願いを尊重し、調停していくことが可能になります。すなわち第三者的な視点で、お互いを仲良くさせていくためには、自分がどんな言葉、表現をしたらいいかなど冷静に、落ち着いて考えることができるようになるわけです。私たちはお互いに意見を対立させて、苦しみ合うことを求めてなんかいないですよね。誰もが共に幸せになりたいと願っている。ところが、気づきや、その視点から生じてくる智慧がないと、 知らず知らずのうちにお互いに対立して、言い合いや喧嘩に発展してしまうわけです。そうした無益な対立を防止し、またたとえ対立が生じてきても、すぐに気づいて我にかえることができれば、平和な関係をそこにすぐさま築いていくことが可能になります。