自分の敵はだいたい自分、というコトバの解釈がな、真逆だと詰むんだな【物語・先の一打(せんのひとうち)】43
施術台から自分を見上げる四郎の顔をみおろして、宮垣はなんともいえない笑顔になった。「枕のタオルをとっかえようか、四郎」
寝ている間にどうどうと出ていった涙が、ぐしょっとタオルを重くしていた。宮垣は新しいタオルを持ってきた。
そして宮垣は、四郎を施術台の端に座らせた。
肩甲骨の間から脊椎のカーブを、とんとんと腰椎へタップしながらおりていく宮垣の手。
「持ち前の身体能力の高さがあるからなあ。ここまで自分をいじめぬいていたって、もちこたえてしまうなあ……ちょっと想像してごらん、全日本選手権で俺がお前をリングに上げて……みんなに紹介して……品のねぇ、やさぐれた、どっかのバカがお前に挑んできてさ……」
筋反つまり筋肉反射とはおもしろいもので、宮垣が ”ちょっと想像してごらん” と言うか言わぬかのうちに、すでに宮垣が言わんとしていることの全貌は、耳が捉えていなくても体細胞は捉え終わる。
ミラーニューロンだろうと言われているが、この速度は違う。
人が誰でも持つ能力……というより、生物の体細胞が持つ能力……。
まるで音叉の共鳴のように、距離があろうとも個体がわかれていようとも、細胞間で情報は伝播する。としか言いようのない速度での反応を、身体能力に耳を澄ますことのできるすべての人間は知っている。
宮垣が「想像してごらん」と、口に出すかださぬかの瞬時に。
瞬時に……警戒、委縮、覚悟、瞬殺、緘黙、会場からの無言の退出……まですべての反応が、十秒足らずのうちに。
わずか六秒のうちに、四郎の全細胞全神経を錯綜して、やがて鎮静化する。
「で、お前のどうやら初恋の女の子が」
宮垣がフロックをかけるかかけぬかのうちに、またもや……
緊張、拒絶へのふるえ、困惑に対する自分への失望、不随意の欲望、意識なく殺害してしまう恐怖、戦慄、自己嫌悪、死体と血をほしがるご先祖さまたちの大合唱への反応、後悔、気落ち、自分への怒り、自己防衛、自分をののしる幾多の声、人のそばからの立ち去り、孤立無援感、理不尽さ、悲しみ、憎悪、失意……
までのすべての反応が、ざわざわと立ち上がった。
そして、身体にぎゅうぎゅうにおしこめられたまま、まだまだ残った不浄霊のご先祖様たちを、わさわさと湧き上がらせる。
こちらは全くおちつかない。
「だぁなあ、恋しちゃったらしょうがねぇなあ……お前に初めて会ったころに、必死こいてご先祖の反応を抜いて抜いて、手錠のかからねえようにするには一年ぐらい、と見積もったが……てんで間に合わねぇやなあ」
「すいません」
施術台の端にすわった四郎は、うなだれて涙声だ。
「こうも女を次から次へと殺しに殺した家系のすえが、お前にだけ色濃く、集約している意味がわからんのだよ。
弟さんもいとこさんも、ほぼ普通なんだろ」
四郎はだまってうなずいた。
「そのかわりたぶん、おまえのすばしっこさも瞬時の見切りも、豹に似たような跳躍も、彼らは持ってないんだろ」
四郎は再びうなずいた。
「いいとこも、たちの悪い嗜好もいっしょくたに、次のご当主ただ一人になだれ込むように、高濃度の産廃をぶっこまれたみたいになってる…… ”峰の先祖返り” は、お前に何の責任もない。じゃあお前は、一心不乱に断固として、ごみは捨てて自分の内装を自分に居心地よく、変えに変えることに徹するまでだ。あれこれ文学的に悩んでちゃいけない」
四郎は宮垣をふりかえった。
「悩んでる脳細胞には、文学が書けねえのさ」
「は!?」
「俺は武芸者やりながら、施術台で二万人見てきた。悩んでる脳細胞は、いっとき文学を書きそうに見えるだろ。ところが生物として損壊していくもんだから、ピークが三年五年ともたないのさ、つまり文芸分野のアスリートとしての生活と仕事と長寿に耐えらんねえんだ。
体細胞の自損自傷がすぎて、弱ったり事故を起こしたり、イキモノとしての土台がこぼたれていくのさ。これだけはそいつが自分でやることだから、止めようがねえ」
宮垣は分厚いてのひらの親指で、四郎の頬の涙をぬぐってやった。
「お前だけは、そっちへ行くな。
初恋の子と、手もにぎれねえんなら、そばで息を合わせる幸せを味わえばいい。キスができねえんなら、手を重ねる幸せを味わえばいい。抱き合えねえんなら、髪の毛にキスしてやるだけでいい。
俺とは品格と路線とが違うんだ、できねえことに歯ぎしりするな。小さい小さい ”できた” を何百何千積み上げるんだ、互いが無事で生きてることを日々の成功と定めるんだ」
宮垣は最後に言った。「選手権の優勝者はなあ、 ”自分の敵はだいたい自分” と口をそろえて言うもんだ。そして自分をいじめたりしない、大目標のための日々の一大事がみごとに完了するように、自分をすこやかに積み上げる。
自分を壊してだめにしていくやつはなあ、敵は他人であり社会であると思い込んでいる。他人のせい環境のせいにしながら、目標ではなく地に足のつかない大きなことをいいながら、そのじつ、こわくて必達目標を作れない、人に宣言できない……目標に達せなくて自己嫌悪すると知ってるからだ。その一方で自分をいじめる。
日々を積み上げることなく流し、後回しにし、同じ失敗をくりかえし、準備を人にたずねることなく、対策を人にたずねることなく、一人でひどい目にあっていると思い込み、ひとりで悩みをかきまぜつづけて強化し、負の再教育を無意識につづける。
”自分の敵はだいたい自分” というコトバの解釈が、両者は真逆なのさ」
宮垣は笑ってそう言った。
「俺自身が三十すぎまで、自分で自分をだめにしていた。
持ち前の体力でふんばってたが、ガタガタっときたわけだ。
二十代のうちに、オリンピックの金メダリストたちのトレーニングや日誌や自己肯定の言葉かけなどには触れていた。業界は違っても交流はあるからな。
だが、無頼を気取っていたんでな。そういうお行儀のいいやり方をばかにしつづけて、結局のところ、二人殺しちまって自分もほぼ再起不能ってぇ、大きな大きな授業料を払ったんだ。
だからお前に、教えてやれる。お前はすなおだから、お行儀のいい正統派のやり方が、似合うよ。最後まで立ってたやつが、勝ちなんだよ、人生は」