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憲法の論証における論理

東京大学法科大学院 小島教授の講座を参考にしています

憲法学における「論理」と論理学における「論理」の差異に対する分析


1 はじめに
 今日の社会においてAI技術が影響力を増していることは多くの人に観取され、AIが人間の論理的思考を代替できるかは大きな関心ごとのひとつである。そこで、「論理」を研究対象とする形式論理学に注目が注がれるのは、いわば自明の理のようなものであって、特に法学を研究対象たる学問領域として捉える私たちにとっては、法学における「論理」を解明し、それが機械学習によって生成されるAIの「論理」によって代替できるかどうかを詳にする試みは、結果によっては法律家としての地位に危機感を抱かせ得るほどに興味深いことである。
 そこで、形式論理学について、本稿の趣旨に沿う程度に端的に言及したうえで、形式論理学の扱う「論理」と、憲法学の論証における「論理」の差異について考察したい。また、法律家及び法律学習者の中で、憲法学の論証は他法律のそれと比べ特異性があるという認識が一般的なことに配慮するため、民法の論証における論理についても触れたい。
2 形式論理学
 形式論理学(以下、単に「論理学」。)における研究対象たる論理とは、前提と結論の結びつきに注目したものと説明できるのではないか。つまり、経験則により真偽の明らかな命題をいくつか結びつけて結論を述べ、その結論が真であるか偽であるかに注意を払うのが形式論理学であると説明できなくないのではないだろうか。換言すれば、論理学は前提が真であるかどうかという意味論的な部分には関心を強く持つものではなく、命題の真偽は自明のものとして議論を前進させる構文論的な学問といえる。
 確かに、今日の形式論理学は上記のような意味論的な膨らみに対しても意識的になり、論証の前提となる命題の真偽をも研究対象とする広がりのある学問であるという主張にも十分に説得力がある。したがって、ここでは、「法学の論証における論理」の考察が議論の中心であるという本稿の不都合性に徴して、論理学を意味論的広がりのぞいたものとして扱いたい。
 論理学によって考察される対象には「論証」と「導出」という概念があると考えられる。論証とは、前提から結論を全体的に考察するものであって、導出とは、前提から結論が導かれる過程のみを考察するものである。したがって、論証としては妥当性を欠くとしても、導出としては妥当であるという帰結が生じ得る。
3 憲法の論証における論理
 憲法の論証において、論理学の影響を受けている場面が存在しないわけではなく、法規範等を大前提として具体的事案の結論と結びつける法的三段論法という手法は広く用いられている。特に戦後の最高裁判示は、法的三段論法を紙面から読み取ることに苦労がないほどに、法学において定式化された法的三段論法を強く意識した構造をとっているように思える。例えば、表現の自由(21条1項)の規制立法の合憲性判断において、公共の福祉に反する表現行為は憲法によって保護されないという大前提を提示して、問題となっている具体的な表現行為が公共の福祉に反するとして、規制立法が憲法に反するものではないといった論証になっている判例が多く見られた。
 しかし、小売市場判決(1972年)が上記のような判例の流れに変化を加えたと評価することはできないだろうか。小売市場判決は、政府による積極目的を実現するための立法は、「著しく不合理であることが明白な場合に限り違憲である」との大前提を提示して、具体的事実を検討して合憲との結論を論証した。このような端的な法的三段論法はさることながら、特筆すべきは、当該判決が「規制立法に関する判断は立法府の判断を待つ他ない」という、論証の担い手たる裁判所の役割について原則論を示したことにある。つまり、当該判決は、大前提となっている抽象命題の論証に労力を割いていると評価でき、その要点を裁判所と立法府の役割分担に置き、22条1項の解釈を通して上記の原則論を当該判決の大前提の根拠にとった。
 小売市場判決以前の判例は、大まかに法的三段論法により憲法に関する紛争解決に至る結論を導出することに重きを置く判決文によって集積されていたが、これ以降は、前提に対して検討を加えて真偽を問うことにも労力を割く判決文が増加したように思われる。したがって、小括するならば、憲法の論証における論理とは、前提から結論を導出するところに加えて、前提そのものの真偽に関心をもつことも厭わない、意味論的広がりをもった論理であるといえる。
4 民法の論証における論理
 民法の論証は、比較衡量による論証が主流となっているが、これは法的三段論法等による定式化をやめたのではなく、市民社会の多様な対立利益を調整するには、その様々な利益を分析することで紛争解決に妥当性をもたせられるとの考えに基づくといえるのではないだろうか。したがって、比較衡量における枠組みを定式化する試みは今なお行われており、平井教授(東京大学)などがその最たる例である。そして、比較衡量が異なる対立利益を秤にのせ、それを衡量するという考え方であるとするならば、その論証において秤に利益をのせる者もまた論証の対象となると考えることができる点で、憲法の論証と共通点を見出すことも可能である。

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