穴をあれこれ考える
「穴」とはないものである。
しかし認識することができる。
僕らにドーナツの穴が分かるのとおなじ。
“存在している”との比較をすることができるような
“ない”という状態であれば穴なのだろうか。
つまり“無”単体は穴になり得ない。
3×3に並べられた椅子に初めから1人も座っていなければ穴は生まれていない。
皆が座っている中に空席(真ん中に限定する必要はなく)が生まれた時に、それが「穴」と言われる概念となる。
では、例えば3×3の9席のうち、逆に2人だけしか座っている人がいないときはどうだろうか。
先の例のように9席の中から1席の空席は「穴」と捉えやすい。
しかし、9席中7席の空白は「穴」になりうるのか。
僕らはこの場合、一般的な感覚では「穴」とは捉えがたく、むしろ座っている2席を「点」という存在で認識するだろう。
ここでまた疑問が生まれた。
その境目はどこになるのか。
この例は3×3の9席だが全くそれに寄らず、
500×500の席でも通ずるような一般化された境になる基準はあるのだろうか。
ドーナツの穴はいつまで「穴」と規定できるのだろうか。ということである。
ドーナツの場合であれば、一口かじって隙間が生まれたことで輪としての定義を失った、“それ”は「穴」なのか。
人は見えていないところを自動的に補う感覚を持つため、もともとあった部分を補い「穴」を補正するのだろうか。
ドーナツの最後の一口の欠片の状態で「穴」はどこにいくのだろうか。
形としての「穴」の存在と概念としての「穴」の存在があり、それらは分けて考える必要がありそうだ。
(思考経路としては、把握が移行していく関係にありそう。)
また別の疑問が浮かんできた。
そもそも穴の存在をなぜ認め、規定したのだろうか。
見えない存在を“ある”と仮定したことで都合がよくなる何かがあるのか。
まるで虚数の存在のように、
私たちが目に見えない存在(実数には存在しえない領域)にあえて名前を付け存在させることで、
式の成立を補うという価値を見出したのか。
現実の何処にいるのかを探すモノ(存在)ではなく、
今ここに存在するモノとして考える。
だとするとその有用性はきっと抽象的な意義となるだろう。
つまり冒頭でも述べた“存在している”との比較ができるという意義。
あっても(存在していても)よさそうな場所に「ない」ことが分かる。
これは「0」という数字の発見と同じくらいの価値があるとおもう。
でも0が始まりの数字のようで初めに発見できなかったように、
その存在の認識はあくまで、関係性というもののもとにあったということがわかる。
「1」が定義されたから、「0」が分かった。
では、次に抽象表現にも物理現象にも通ずる、
「穴」ができるという事象をどう表現するか考えてみたい。
つまり「0」の部分が生まれる瞬間をどう表すか。
例として、「心に穴があく」という表現をつかう時、
「空く」がいいのか、「開く」がいいのかと考える。
心を“点”の集合と考えれば、ある置かれていた点がひとつ無くなることで、その部分が「空」になる。
点がマイナス1されることである項の重さが0になる。
また、心を布や紙のようなものだと考える。
なにかの刺激で裂傷を喰らい、“破れる”という状態になれば、心そのものの重さは変わらず隙間が「開く」という方がふさわしいだろう。
どちらの方が修復が楽なのだろうか。
「開いた」穴を自分という素材で閉じる方が楽なのか。
「空いた」穴を外部からの何かで埋める方が楽なのか。
「穴」は考えれば考えるほど分からない。
結局、まとまりのない文章で疑問ばかりを表すものとなってしまった。
今こうしているうちにもまた別の疑問が浮かぶ。
立方体を考えて、あるひとつの向かい合う二面をなくしたらそれは穴(空洞)と言われやすいが、4面ある状態での空箱の“空”の部分は穴なのか。
(これはなにを「ある/満」と捉えて、「ない/空」を規定するかの問題なのか。)
だとすれば宇宙“空間”といわれることにおいて、
宇宙もひとつの穴になりうるのか。
と。
これはまた今度考えることにして今日はカレーを食べよう。