2つの「聴く」論に「聞く」を足すと?【聴く・聞く論】
先日のverdeさんの家族旅行のお話、強い絆を感じました。とくに家族旅行の写真で三人の手が写っているのを見て、なんて素敵な写真なんだろう!と思うのと同時に、今回の旅行でパートナーにも思い出の残る何かをプレゼントしようという気持ちになりました。なにかパートナーが気にいるものが見つかると良いなぁ。
さて、今回の日記の本題に入っていきたいと思います。簡単に言えば「聴く・聞く」論ですね。
相手の言葉に耳を傾ける。とても重要な行為です。その行為について素敵な投稿が2つされました。まずは、嶋津さんの「インタビュン」。
そして、verdeさんの「良質なコミュニケーションにおける「質問という名の対話」について考える」。
両方の投稿は「聴く」こと、そして対話というコミュニケーションについて深く考えさせられる良質な記事です。まだ読んでいないよーという方がいらっしゃったら、ぜひ読んでみてください。新しい発見があると思います。
わたしも新しい発見をした1人です。それと同時になにか一足飛びに「聴く」という話になってはいやしないかとも思ってしまったのです。そのなにかとは「聞く」という行為です。お二人の論考は、豊富な経験から描き出されています。嶋津さんはプロのインタビュアーという経験、verdeさんは接客業のプロとしての経験。残念ながら私にはそこまで深い経験がありません。なので、在野の研究者らしく本という資料を活用しながら、論を進めていこうと思います。資料はこの本を活用します。
東畑開人さんの『聞く技術 聞いてもらう技術 』(ちくま新書 1686) です。
東畑さんは臨床心理士として活動しながら、『野の医者は笑う: 心の治療とは何か?』や『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』など心についての著書も出版されています。
さて、本題の「聞く」ことについて語る前に、簡単にこれまでの2人の論考を振り返ってみましょう。まずは嶋津さんの「インタビュン」。この中では普段プロとしてインタビューする側の嶋津さんが、インタビューされる側となり、そこで感じ取ったことが書かれています。「聴く」こと、インタビューすること、そしてインタビューするはずの人がなぜか自分の話をしてしまうことがあるという内容です。有料記事なのであまり踏み込むとネタバレになってしまうので、簡単なまとめとさせていただきます。
そして、verdeさんの「良質なコミュニケーションにおける「質問という名の対話」について考える」という論考では、接客業のプロの視点から如何にお客様と接するか、コミュニケーションとしての発端としてどう対話を始めるか、そして人は「話したい」という欲求を持っていることを看破しながら話を進めていきます。
2人に共通するテーマとして挙げられているのは、「聴くこと」と「対話」というコミュニケーションです。そして、その先にあるゴールも明確です。嶋津さんの場合なら「インタビューとして成立するかどうか?」、verdeさんの場合なら「購入するかどうか」というどちらも職務を全うするというゴールが対話の先にあります。全ての対話が直接的にゴール・インするとは限らないとしても、2人の聴く・対話論はプロフェッショナルな理念のもとに論考が進められます。とても有益で得られるモノが多い文章です。
もう一歩踏み込んでみましょう。嶋津さんの場合から考えてみましょうか。嶋津さんの「聴く」は、相互コミュニケーションが前提としてあります。インタビュアーとインタビューイーは、相互にやり取りをしてそこから対話へとつなげていく。もちろんそれは簡単ではなく紆余曲折はあるでしょうが、「インタビューを成立させる」という目的のもとに対話がなされます。訊く立場と聴く立場は同一のステージに立ち、ゴールという同じ方向を向いて行為がなされます。これは西洋的的な文法に則ったコミュニケーションで、リニア的な直進が理想と考えられます。つまり、イレギュラーな会話もインタビューの材料とされ、対等な立場かつ「個人」を確立した状態で行われる相互行為。そこに私は西洋的な文化背景が潜んでいると考えるのです。できるだけ合理的にコミュニケーションが行われ、インタビューする側もされる側も確固とした意見や信念を持つ「個人」が良質な対話を産み出す。そこにあるのは「個人」という一人の人間が行う行為としての「話し、聴く」という相互行為であり、対等的なポジションを確立した西洋的な思想が入り込んでいると考えられはしないでしょうか。
そして、verdeさんの場合。verdeさんの対話は嶋津さんほど、リニア的な直進をしません。それは目的の見えないお客様が、対話の対象となるからです。単に商品を見に立ち寄っただけなのか、verdeさんとの会話を楽しみに来店したのか、それとも購入する意志があって来店したのかを先に見極めなければなりません。そこでまず最初に必要なのは対話ではなく、「会話」です。会話を通して、お客様の目的を知り、購入意志が少しでもあれば「対話」へと移行することなります。関係性のステージが一段階アップしたと言えるでしょう。ただし、まだ関係性は不安定です。verdeさんが書いたように、人は「話したがって」います。よって、お客様主導で対話が進んだり、お客様の意図を汲んだverdeが主導になって対話を進めたりと主導権はあっちに行ったり、こっちに行ったりします。先ほど述べたように嶋津さんとの違いはここにあります。お客様との距離感や空気感があり、そこを乗り越えてから「対話」へと移行していくのです。嶋津さんほど西洋的的な文法で会話が進むのではなく、東洋的な緩やかな文法で対話を進めていくことから、和洋折衷的なタイプの聴くと対話といえるでしょう。(東洋的な思想については後述します。)
さて、ここまで話を進めてきてなんですが、「聴く」とはどういう意味なんでしょうか?そして、「聞く」とはどんな違いがあるのでしょうか?ここで東畑さんに登場してもらいましょう。
どうでしょう、この定義を活用すれば「聴く」と「聞く」の違いがはっきりわかりますね。しかし、こう思う人もいるかもしれません。「「聴く」ことのほうが、「聞く」よりも難しくて、上位概念なんだ」と。実はそうでもないと東畑さんは言います。「聞く」ことは、難しいことだと。どこが難しいのでしょうか。それは「聞く」という行為が、信頼関係の上に成り立っているからです。
話を「聞く」ということは声を届ける相手を信頼し、この人なら自分の気持ちを分かってもらえるということが重要です。いったん、その信頼関係が崩れると「聞く」という行為は成立しません。例えば、夫婦喧嘩や恋人同士の喧嘩、親子喧嘩などもこの範疇に入るでしょう。相手との信頼関係が崩れている状態で話をしても、聞いてもらえない。それどころか拒絶されてしまう可能性すらあります。みなさんもこのような経験があるのではないでしょうか。拒絶されることで、人は孤立します。声が心の中でグルグルと周り、パニックになったり、怒ったり、モノにあたったり。「聞く」ことをされずに行き場のなくなった言葉が、心を掻き乱します。対話にも、会話にもならない状態が、この状態です。そうなると先に書いたように人は孤立してしまうのです。不安感に取り込まれてしまうのです。
しかし、孤立ではなく「孤独」な状態になると考えられるようになったらどうでしょうか。孤立には不安感がつきまといますが、孤独には安心感があるのです。想像してみてください。森の中で1人でキャンプをしている場面を。それは孤立でしょうか。いいえ、違います。自ら人と距離をとり、1人でいられる強い力を持った状態です。この1人でいられる能力は、「聞く」という行為に関係してきます。孤独に耐えうる強い心の働きは、「ごめんなさい。よくわかっていなかった」という言葉を発することができ、相手の言葉を受け入れる行為、つまり「聞く」ことができる状態になるのです。
声には小さな声と大きな声があります。この小さな声と大きな声を受け入れるには、心が複数必要となってきます。1人の人間の中に心が複数ある状態は、西洋的思考では考えられません。西洋的思考ならば心身同一のもと、心は1つだからです。それと対比して心が複数ある状態を東洋的思考と言ってよいでしょう。この東洋的思考が「聞く」という行為の背後にあるのです。
このように考えてみれば「聴く」が「聞く」の上位概念としてあるのではなく、別の並列概念として存在すると考えられます。言い換えれば、「聴く」という西洋的思考と「聞く」という東洋的思考は対立するのでも、上下関係にあるのでもなく、並列した思考体系と見做すことができるという訳です。
「聞く」とは、対話とは異なるレイヤーに位置します。そこで重要なのは「うまく語る技術」ではなく、「うまく聞いてもらう技術」です。信頼関係を築いた上で、物語ったり、物語られる関係性こそ東洋的思考ではないでしょうか。この東洋的思考は私たちの日常の中に至る所にあります。しかし、インタビューや業務というのは、プロフェッショナルや慣れた人以外にとっては非日常的な行為です。
事実や考えを引き出そうとする行為は非日常的な行為であり、だからこそ「聴く」という行為が意味を持ちます。そして、「聴く」という行為をうまく行うにはトレーニングが必要となってきます。頭の中にある思考やその人自身も気がつかない考えを引き出すのが、「聴く」という西洋的な行為です。
それに対して、日常的に話される言葉や心情を受け止める行為が、「聞く」という東洋的な行為です。この違いを正しく認識することで、非日常的な「聴く」ことができたり、日常的な「聞く」ことを上手にできるのではないでしょうか。この差を認識して行動することこそ、場面に合わせた「聴く・聞く」行為を行え、良質的かつ適切なコミュニケーションをとることが可能になると考えられます。
もう一度振り返ってみると、「聴く」とは非日常的でかつ西洋的な思想が背景にあり、能動的に言葉を使用し、受け入れること。それには、トレーニングが必要であるということ。「聞く」とは日常的でかつ東洋的な思考が背景にあり、受動的に言葉を受け入れること。トレーニングは必要なく、「聴く」という行為と並列する行為であるということ。また、この二つの行為は相反するものではなく、相互的な関係でどちらが良いとか悪いとかはありません。
より良いコミュニケーションには、信頼関係が必要です。その築きあげられた信頼関係の上で、「聴く・聞く」という行為を行うことが大切だと言えます。今回の論考を書くキッカケを与えてくれた嶋津さんとverdeさんに感謝の意を示して、論を閉じようと思います。嶋津さん、verdeさん、本当にありがとうございました。そして、拙い言葉で綴った長文を最後まで読んでくれたあなたに感謝を!
さてさて、「聴く・聞く」論は終わりましたが、まだやっていないことがあります。そうですね、プチ・フランス語講座ですね。今回も命令形をやっていきます。ただし、不規則動詞の命令形です。
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これまで出てきた不規則動詞ですが、命令形はer動詞と違い、まったく別ものです。もう辞書に当たって覚えていくしかありません。でも、せっかくですから今まで出てきた不規則動詞の命令形も見ていきましょう。まずは、être(〜である)から。ちなみにêtreの活用って覚えてます?活用はこんな感じでしたね。
そして、命令形はこんな感じになります。
sois (スワ)
soyons (スワィヨン)
soyez (スワィエ)
「〜であれ」と意味にも使えるし、形容詞と一緒に使います。
Soyez tranquile.(スワィエ トゥランキル)
意味は「落ち着いてあれ→落ち着いてください」
tranquileというのが、「心が落ち着いている」という形容詞です。そして、複数形のsがついていないので、丁寧な命令形だと判別できます。
次がavoir(アヴワル 持つ)の命令形。
air(エ)
ayons(エィヨン)
ayez(エィエ)
意味は順に「持ちなさい」「持ちましょう」「持ちなさい/持ってください」となります。例としては、
Ayons du courage. (エィヨン デュ クラジュ)
前にElles ont du courage.(エル・ゾン デュ クラジュ)「彼女たちはいくらかの勇気を持つ」という文をやりました。avoir du courgeは「勇気がある」という意味で、命令形だと「勇気を出しましょう」という意味になります。
va(ヴァ)
allons(アロン)
allez(アレ)
最後がaller(アレ 行く)の命令形。
例文としては、Va à la gare.(ヴァ ア ラ ガル)「(あの)駅へ行ってくれ」
àは英語で言えばtoに当たる前置詞で、「〜へ」という意味です。gareは「駅」のことで、女性名詞なので la という定冠詞がついています。
こんな感じで不規則動詞は命令形も不規則です。でも、命令ってあんまりしないから「こんなものか〜」と思っておいてください。それでは〜。
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