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秀山祭九月大歌舞伎昼の部

※見出し画像は筋書巻頭絵から(作者は鳥居清光氏)
「摂州合邦辻」合邦庵室の場
中村歌六丈が合邦、米吉丈が浅香姫
今日は歌六丈の奥様も米吉丈の奥様も来られていて、挨拶を受けることができた。歌六丈のお知り合いなのか、京都から芸妓さん、舞妓さん、芸舞妓の贔屓筋さん?も何人か見えていて、興味深かった。
幕間に舞妓さんの髪を置屋のお母さん?が直していたりして

さて、芝居の話
玉手御前の菊之助がさすがに名演。玉手御前の複雑性をその表情や仕草で十分に表す。玉手御前は20歳になるかならないかの年齢ということだが、それを47歳の菊之助が演じるからこそ、複雑性を表現できる
女形が年齢を重ねれば、それだけ深みができることの好例にもなっている

俊徳丸への愛情、色欲を持っていると「演じることを演じる」という構造は、先日のオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」で試みられていたわけだが、歌舞伎ではそもそも常道になっている

複雑性と言えば、合邦における義理と人情が単に二重ではなく、さまざまな義理、さまざまな人情の相克に苛まれている姿を、歌六丈が真骨頂で演じていた

「人ではなく幽霊」だから受け入れられるというような、レトリックによる自己欺瞞によってアポリアを解決することも歌舞伎では頻出する

玉手が自らを犠牲にして、夫の高安も、俊徳丸も、次郎丸さえも救おうとする姿を、合邦が「でかしゃった」「でかしゃった」という時の引き裂かれた感情もまた、歌六丈が十分に演じていた

言い訳を用意することで相手の逃げ道を意図的に用意するという仕掛けも珍しくはないが重要

玉手御前はいがみの権太と合わせての二大「もどり」と言ってもいいのだろうか、このあたりはもう少し研究

もう一つの演目は、夢枕獏原作の「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」
先日の「狐花」、これも幸四郎だったが、同様に
台詞で物語を進めていくので、歌舞伎役者が演ずる必要性が弱い印象がある

もちろん、歌六丈の丹翁/丹竜や、雀右衛門の楊貴妃などの好演もあるし、物語における「幸せ」の多義性など注目すべきところはあるが果たして

この「幸せの多義性」について蛇足を述べれば、だから「地域幸福度」などと言う言葉の薄っぺらさや、気持ち悪さに思いが至る


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