夢遊病の女@新国立劇場
ベッリーニのオペラ「夢遊病の女」、ベルカントオペラは演出の工夫が前面には出てこなかったが、最近は、多様な演出がなされるようになったと、プログラムにあった
その通り、バルバラ・リュックの演出もなかなかに際立っていた
冒頭の場面で、クラウディア・ムスキオ演ずるアミーナに、ダンサーがあたかも憑依神でもあるかのように絡んでいく
これを夢遊病の象徴ととらえることも可能だが、もっと大いなるものとして把握したほうが面白い
後段になっていくと、これは個人への憑依に止まらない、世間とか社会とか関係とかへの憑依ではないかとも思える
ダンサーの使い方として、先日のラ・ボエームにおける森山開次の演出よりはずいぶんと適切なのではないか
舞台美術として、世界樹なのか、その上の2人の人物のぬいぐるみはどのような意味を持つのか、先端にあるのが神ではなく人であり、人の関係であるというぐういとすれば面白いが
第二幕の火力発電所や、最後の遠近法を誇張した会堂も不安を作り出す力に長けていた
世界樹から火力発電所へということを、失われた秩序と読むこともできるかもしれない
第一幕で、歌わないリーザが対照として立つところが、効果的だった
また、シーツによる場面転換も興味深いし、背中を向けることによる圧力も意識的だろう
ストーリーとしては、伯爵の冷静な従者の存在も気になった、他の演出でも同様なのだろうか
ロドルフォという存在を帰ってくることにより、地域の再定義が行われる、行われてしまう機序として考えることもできるのかもしれない
一部の紹介に「知識人の帰郷により迷信が解決される」とあったが、そう単純なものでは無さそうだ
このあたり村人が何度も豹変することが、地域の再定義に関わっているというのは読み過ぎだろうが、可能な読みでもあると思う
このあたり、リーザもエルヴィーノも伯爵も脛に傷もつ人であり、アミーナの「潔白」がむしろ胡散臭くも見えてはくるが、流石にこれは門違いかもしれない
会堂の屋根の上で一人屹立するアミーナが、セリフでは再びの愛と言いつつも、エルヴィーノとは上下に遠く離れたまま幕となるところは、リュックがプログラムのプロダクションノートで記していた、新しい解釈に繋がるんだろう
演出の多様性を考慮すれば、オペラは既に現代劇であるなあ