祈りの身体論
モスクワで学んだ「祈りのエクササイズ」
これに似たものは確か2009年に習った。
システマ吉祥寺の西部さんや藤盛さん、田藤さんなどもいたはずだ。
その時に学んだことの大枠は今回と一緒。でも今回の方がエクスターナルやインターナルを経たことで、深みを増していたように思う。
と言うかおそらくミカエルは同じことを教えていた。こちらの理解が僅かながら進んだことで、受け取りかたが変わったと言うことなのだろう。
これを日本に伝える際に障壁となるのが「Spiritual」である。
スピリチュアル、精神性。
いずれも日本ではなんだか俗っぽいイメージがついてしまった。
現実から目を背け、自分だけ精神の高みを目指す。俗社会への偏見や嫌悪の裏返しとしての精神性。単なる世間知らず。なんだかそんなニュアンスが含まれるようになってしまった。
おそらくミカエルが言う言葉の意味をできるだけ忠実に伝えるなら、おそらく「聖性(Holiness)」が近いんじゃないかと思う。
神へと近づいた精神。神へと近づこうとする精神。それも俗世間からの逃避ではなく、俗世間と地続きの神。なぜならこの物質的な世界もまた創造物による創作物だ。だから創作物を否定することは、神の仕事を否定することになる。
そこに近づこうとするのが「聖性」なんじゃないかと思う。そしてシステマはそのための具体的な行ともなり得る。
それを総称する言葉が「祈り」だ。
「祈りのエクササイズ」の発想を発展させるなら、あらゆる行為は祈りとなる。そう言う前提で練習を続けるのだけど、少し違和感が生じる。
自分自身、そして自分と一緒に練習をしてくれる人たちの動きを見ていると、なんだか違う気がするのだ。
ミカエルの言う「祈り」と、私たちつまり日本人にとっての「祈り」。
それは同じ言葉でもずいぶんニュアンスが異なるのではないか。
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